第9話
文字数 2,237文字
そういえば、神獣の墓にも星空があったな、とヴァンは思い出す。
この隠れ里は、星空を連想させるもので溢れている。例えば、この藤棚もそうだ。
星、海、空、魂。輪廻の回廊を創りだした神獣エル。しかし、その墓はずっとここにある。神は海に行かなかったのだろうか。星になって新たな生命になることを拒んだのだろうか。神だから特別だったのだろうか──。
ヴァンは、聞こえもしない潮騒を感じながら、目を開けた。天から降り注ぐ生命。それが、自分にも宿っているんだろうか。きらめく青と紫の花吹雪を見て、ヴァンは不思議な気持ちになった。
上半身を起こして、横で寝そべるリアンを見ると、木漏れ日が彼女の頬に淡い影を落としていた。リアンの長いまつ毛が気持ちよさそうに、風にそよいでいる。それに見とれていると、藤の花が頭上からはらはらと降ってきて、リアンの頬にぽとりと落ちた。ヴァンは、その花をそっと摘もうと、柔らかな肌に手を伸ばす。すると、そのとき、リアンが『ヴァン……あたし、海を見てみたいの』と小さく呟いた。
その、なんの感情もこもっていない無機質な声色に、ヴァンはどきりとして、手を引っこめる。
リアンから発せられたとは、にわかに信じがたい冷たさ。安易に、リアンに触れてはいけない気がした。触れてしまえば、リアンの何かを壊してしまいそうな気がしたのだ。
ヴァンはそれが何か、すぐにわかった。さらに、感情を抑えているのは、胸の奥底に抱えている願望を溢れさせないためだ、ということも。言葉に表さずとも、その潤んだ黄金色の双眸が全てを物語っていた。
山に篭もり、世界の安寧を祈る巫女。外の世界を知らない少女。リアンはずっと、誰かを待っていたのだろう。外の世界を教えてくれる誰かを。そして、願わくば、自分の目でそれらを見る機会に恵まれることを。
リアンの健気な願いを目の当たりにし、ヴァンの胸の中で、突如として切ない感情が芽生えた。それは思考を荒らし、理性を乱した。心臓は早鐘を打ち、血潮は嵐のように激しく渦巻いていた。
「リアン……」
気がつくと、ヴァンはリアンを抱きしめていた。考えるより先に、身体が動いた。
リアンは、ヴァンの腕で静かに震えていた。ヴァンの鼓動は胸を突き破らんとする激しさで、高鳴っている。リアンにも丸聞こえだろうと思うと、少し恥ずかしかった。それでも、離すまいと必死だった。リアンをここで手放したら、もう二度と自分のそばにはいてくれないような気がしたから。
しばらくすると、腕の中から小さな嗚咽が零れ、ヴァンの胸を濡らした。じんわりと広がる温かさに、ヴァンはリアンが"星詠みの巫女"である前に、血の通った一人の少女だということを、初めて理解した。
せめて今だけでも、その悲しみを分かち合いたいと、ヴァンはその日、リアンの気が済むまで抱きしめていた。
ヴァンが星花宮に来て、一週間が過ぎていた。
女性二人との生活は心休まらない一時もあったが、常春の気候は居心地がよかった。花が咲きほこり、平穏な時間が流れる星花宮は、まさに楽園だった。しかし、今はもう身体もすっかり完全回復し、痛みも感じることはない。様々な思いを抱えながらも、ヴァンは星花宮から去る決意をした。どうしても、はぐれた友人を探さねばならない。リアンに対する感情に対しても、激しい葛藤があったが、友人の安否を無視することもできない。リアンを連れ出して、一緒にディーマを探すのが一番都合のよい選択肢だったが、そんなことが許されるとは思えなかった。
旅立ちの前日、宵のせまる夕刻のことだった。
「リアンもリーファンも、本当にありがとう。日が昇ったら発つよ。きっと、もう……逢えないね」
「お友達、見つかるといいですね」
別れは名残惜しかった。
リーファンは、相変わらず感情を表に出さない口調だった。リアンは、一言も言葉を発さず、俯いている。それを横目で見たリーファンは、申し訳なさそうな表情をヴァンに向けた。
リアンは、先日の抱擁以来、ヴァンをあからさまに避けていた。その理由はわかる。自分が逆の立場っだったら、同じことをするだろう。余計な期待をするのは辛い。実際、今もこうして、どうしていいかわからないまま、ヴァンは別れを告げようとしている。
ヴァンとリアンの間には、ぎこちない無言の空間が漂っていた。リーファンが気まずそうに眉根を寄せているが、どうにもならない。
ヴァンはたまらなくなり、「じゃあ」と言って背を向けた。
これが最後。そう思うと、泣きそうになった。
唇を噛み締め、天を仰ぐ。
リアンの願いを叶えられない不甲斐なさと、始まることのなかった恋に終止符を打ったねばならないやるせなさは、この先一生忘れることはないだろう。
早く去ろう。
ヴァンは、重々しく苦渋の一歩踏み出した。しかし、勇気を振り絞った歩は前に進まなかった。リアンが、ヴァンの袖をぎゅっと握りしめていたからだ。
ヴァンが振り向くと、リアンは顔をくしゃくしゃにして泣きだしていた。愛らしい顔立ちは見る影もなく、目を真っ赤に腫らしていた。
『……少しだけ、あたしに時間をちょうだい。花園の……藤棚で待ってて』
夕陽に濡れた瞳が、ヴァンの心を大きく揺さぶった。これは、神が残した最後の情けなのだろうか。これを払いのけたら、本当に後はない。ヴァンは、リアンの手を取った。
もう離してはいけない。
この隠れ里は、星空を連想させるもので溢れている。例えば、この藤棚もそうだ。
星、海、空、魂。輪廻の回廊を創りだした神獣エル。しかし、その墓はずっとここにある。神は海に行かなかったのだろうか。星になって新たな生命になることを拒んだのだろうか。神だから特別だったのだろうか──。
ヴァンは、聞こえもしない潮騒を感じながら、目を開けた。天から降り注ぐ生命。それが、自分にも宿っているんだろうか。きらめく青と紫の花吹雪を見て、ヴァンは不思議な気持ちになった。
上半身を起こして、横で寝そべるリアンを見ると、木漏れ日が彼女の頬に淡い影を落としていた。リアンの長いまつ毛が気持ちよさそうに、風にそよいでいる。それに見とれていると、藤の花が頭上からはらはらと降ってきて、リアンの頬にぽとりと落ちた。ヴァンは、その花をそっと摘もうと、柔らかな肌に手を伸ばす。すると、そのとき、リアンが『ヴァン……あたし、海を見てみたいの』と小さく呟いた。
その、なんの感情もこもっていない無機質な声色に、ヴァンはどきりとして、手を引っこめる。
リアンから発せられたとは、にわかに信じがたい冷たさ。安易に、リアンに触れてはいけない気がした。触れてしまえば、リアンの何かを壊してしまいそうな気がしたのだ。
ヴァンはそれが何か、すぐにわかった。さらに、感情を抑えているのは、胸の奥底に抱えている願望を溢れさせないためだ、ということも。言葉に表さずとも、その潤んだ黄金色の双眸が全てを物語っていた。
山に篭もり、世界の安寧を祈る巫女。外の世界を知らない少女。リアンはずっと、誰かを待っていたのだろう。外の世界を教えてくれる誰かを。そして、願わくば、自分の目でそれらを見る機会に恵まれることを。
リアンの健気な願いを目の当たりにし、ヴァンの胸の中で、突如として切ない感情が芽生えた。それは思考を荒らし、理性を乱した。心臓は早鐘を打ち、血潮は嵐のように激しく渦巻いていた。
「リアン……」
気がつくと、ヴァンはリアンを抱きしめていた。考えるより先に、身体が動いた。
リアンは、ヴァンの腕で静かに震えていた。ヴァンの鼓動は胸を突き破らんとする激しさで、高鳴っている。リアンにも丸聞こえだろうと思うと、少し恥ずかしかった。それでも、離すまいと必死だった。リアンをここで手放したら、もう二度と自分のそばにはいてくれないような気がしたから。
しばらくすると、腕の中から小さな嗚咽が零れ、ヴァンの胸を濡らした。じんわりと広がる温かさに、ヴァンはリアンが"星詠みの巫女"である前に、血の通った一人の少女だということを、初めて理解した。
せめて今だけでも、その悲しみを分かち合いたいと、ヴァンはその日、リアンの気が済むまで抱きしめていた。
ヴァンが星花宮に来て、一週間が過ぎていた。
女性二人との生活は心休まらない一時もあったが、常春の気候は居心地がよかった。花が咲きほこり、平穏な時間が流れる星花宮は、まさに楽園だった。しかし、今はもう身体もすっかり完全回復し、痛みも感じることはない。様々な思いを抱えながらも、ヴァンは星花宮から去る決意をした。どうしても、はぐれた友人を探さねばならない。リアンに対する感情に対しても、激しい葛藤があったが、友人の安否を無視することもできない。リアンを連れ出して、一緒にディーマを探すのが一番都合のよい選択肢だったが、そんなことが許されるとは思えなかった。
旅立ちの前日、宵のせまる夕刻のことだった。
「リアンもリーファンも、本当にありがとう。日が昇ったら発つよ。きっと、もう……逢えないね」
「お友達、見つかるといいですね」
別れは名残惜しかった。
リーファンは、相変わらず感情を表に出さない口調だった。リアンは、一言も言葉を発さず、俯いている。それを横目で見たリーファンは、申し訳なさそうな表情をヴァンに向けた。
リアンは、先日の抱擁以来、ヴァンをあからさまに避けていた。その理由はわかる。自分が逆の立場っだったら、同じことをするだろう。余計な期待をするのは辛い。実際、今もこうして、どうしていいかわからないまま、ヴァンは別れを告げようとしている。
ヴァンとリアンの間には、ぎこちない無言の空間が漂っていた。リーファンが気まずそうに眉根を寄せているが、どうにもならない。
ヴァンはたまらなくなり、「じゃあ」と言って背を向けた。
これが最後。そう思うと、泣きそうになった。
唇を噛み締め、天を仰ぐ。
リアンの願いを叶えられない不甲斐なさと、始まることのなかった恋に終止符を打ったねばならないやるせなさは、この先一生忘れることはないだろう。
早く去ろう。
ヴァンは、重々しく苦渋の一歩踏み出した。しかし、勇気を振り絞った歩は前に進まなかった。リアンが、ヴァンの袖をぎゅっと握りしめていたからだ。
ヴァンが振り向くと、リアンは顔をくしゃくしゃにして泣きだしていた。愛らしい顔立ちは見る影もなく、目を真っ赤に腫らしていた。
『……少しだけ、あたしに時間をちょうだい。花園の……藤棚で待ってて』
夕陽に濡れた瞳が、ヴァンの心を大きく揺さぶった。これは、神が残した最後の情けなのだろうか。これを払いのけたら、本当に後はない。ヴァンは、リアンの手を取った。
もう離してはいけない。