第6話
文字数 2,280文字
「あれも魔獣か……? ずいぶんと穏やかなやつもいるんだな。な、ディーマ。……あれ、ディーマ?」
このとき、ヴァンは初めてディーマがそばにいないことに気がづいた。ざあっと、全身から血の気が引いていく音が聞こえた。ここは精霊の住処、迷いの森。何人もの人が帰れなくなったという、魔性の森だ。ヴァンの脳裏に、沢に折り重なる骸骨の影が浮かぶ。そのてっぺんに、ディーマの骸が……。──縁起でもない!
「ディーマ!」
ヴァンは大声で叫びながら、辺りを見回した。ディーマは、ヴァンよりも頭一つ大きく、縦にも横にも大きな体をしている。そのディーマの影が、全く見当たらない。いつはぐれたのかも検討がつかない。とにかく、来た道を引き返すことにした。急げば、まだどこかにいるかもしれない。
しかし、いくら歩けども、この日何度も引き戻された森の入口に、なかなか辿り着けない。目印の大株はいつになっても現れず、日は容赦なく暮れていった。森は蒼く陰り、夕暮れ時とは違う幻想的な景色を顕にした。
木々にまとわりつく苔やきのこが妖しい光を灯し、仄暗い闇の中で鳥が甲高く鳴いた。真っ黒な影に覆われた枝葉は、黄泉の国から甦った死者が纏う襤褸のようだ。生命のたくましさを感じる昼間とは違い、夜の森は死者のためにあるような雰囲気で満たされていた。
不気味な気配を感じながら、ヴァンは足を早める。歩きながら、ヴァンはさっきまで乾いていた足元の土が少し湿っぽくなっていることに気がついた。
それだけではない。沢の音がかすかに聞こえる気がした。風に揺れる木立が鳴らす禍々しい音に混ざって、爽やかなせせらぎの音が、確かに聞こえた。
(──泉が近い)
ヴァンは、直感的にそう確信した。
けれど、今はディーマの方が大事だ。焦る気持ちの前に、探究心の出る幕はない。ディーマの身になにかあれば、とそればかりが気になっている今、泉のことはどうでもよかった。むしろ、よきものかどうかもわからない精霊に出逢いたくないのが、ヴァンの今の正直な心境だった。
けれど、もしかすると自分の方が危ういのかもしれない──。
そう思ったのは、先ほどの白い狐が、ヴァンと並走していることに気づいたからだ。いつ戻って来たのだろう。近づいてくる気配など感じなかった。幸い、狐が危害を加えてくる様子はないが、飼い主を追いかけるように白い狐はずっとヴァンの横を走っている。とはいえ、魔性を帯びた獣がそばにいるのは気味が悪い。
(──とにかく、逃げ切らなくては)
そこで力強く踏み込んだのが間違いだった。
ヴァンは濡れた枯れ草に足を取られ、そのまま崖から滑落してしまっまのだ。
それからしばらく気を失っていたというのが、ことの顛末だった。
ヴァンは、痛みの中で全てを思い出し、どうしたものかと途方にくれた。ディーマが無事であればいいが、それも確かめようがない。自分はこのまま森の動物か魔獣か、はたまた件の精霊に喰われてしまうのかと、身を震わせた。
崖の上で、白い狐がキュルルキュルル、と愛らしい声でしきりに鳴いている。親玉を呼んでいるのか、森の奥をしきりに気にしているようだ。身動きのとれない自分に今できるこもは、何が起こっても平常心を保つことだけだ。無言のまま、ヴァンは目を閉じて祈りを捧げた。これで、自分は終わりかもしれない。せめて、精霊がよきものならば、ディーマだけでも無事に返してやってほしい、と願った。
すると、狐が突然、ピュイっと甲高い声を発した。ヴァンは目を開け、崖の上を眺めた。一時のあいだ何も変化はなかったが、しばらくして何かが近づいて来るのが見えた。
見えた、というより、それはうっすらとした明かりだった。
──あれは……、精霊だ!
ヴァンは、思わず息を飲んだ。
崖の上に姿を現したのは、文字通り全身を白に染めあげた、異様な雰囲気を漂わせた精霊だった。
精霊は、屍人のような真っ白な肌と、男か女かわからない、ぞっとするような美しさを纏っていた。縫い目のない変わった質感の装束は、異世界からの訪問者のようでもある。とにかく、何もかもがヴァンの知っている常識から逸脱しているのは確かだった。
精霊は、重力を感じさせない動作でふわりと崖を降りると、ヴァンの元へ近づいて来た。歩を進めるたびに揺れる白銀の髪は、かすかな光を浴びて螺鈿のような輝きを反射させている。そして、精霊はヴァンのすぐ側までくると、ぴたりと動きを止めた。夕闇を溶かした菫色の瞳で、しばらくヴァンを品定めするように眺めた。熱を感じさせない冷たい瞳に、虹彩にうっすら差している躑躅色だけが、生気を宿しているようだった。
ヴァンが何か言おうとしたとき、精霊がようやく口を開いた。
『じきに助けが来る。それまで眠っておいで』
その声は、意外にも柔らかく、凛としていて心地のいい声だった。
精霊は、一言だけ言い残すと、ヴァンに背を向けた。精霊が衣を翻したとき、リーン、と鐘のような金属音が響いた。聞いたことのない、美しい音だった。その、どこまでも澄みわたる残響。干渉し合う音に心奪われていると、ヴァンは凄まじい睡魔に襲われた。
また、音が響く。悠久の時を感じさせる音が、ヴァンの意識を奥深くに引き摺っていく。
ヴァンの視界に、精霊の姿はもう見えない。星の光も闇に溶け、三日月も水面に揺れるように消えていく。そして、視界に帳が降りると、ヴァンは完全に意識を失った。