第三章

文字数 4,894文字

 家に帰ると、母が心配そうに出てきた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。早く終わったから町ブラしてきた。」
「あっそう。」
連絡しておけばよかったかな。
夕食を食べながら、検査の話をした。
「爆音を耳元で聞かされる拷問受けて7000円だよ?なんだか腑に落ちない。」
「何言ってるの。悪いところ調べてもらったんでしょ。」
そりゃ、そうなんだけど。
「帰りに「黒猫」寄って来たよ。まだ行ってないんだって?」
「なんだか、それどころじゃなくてね。」
「今度は連れて来ます、って言っといた。」
「大げさだわね。」
それにしても今日はいろいろ疲れたな。こんな日はお風呂に入って、いつでも眠れるようにしておく。後で楽になるように選択できるようになったのは、もう若くないからだろう。
「お風呂入っちゃうね。」
「うん。」
母が気を利かせてくれたのか、お風呂場には入浴剤の香りが充満していた。
「本当は炭酸ガスが入っている方が良かったんだけど。」
母の言う通り、あのシュワシュワした入浴剤は芯まで温まる感じがして、今日みたいな雪の日にはぴったりなのだが、以前炭酸ガス入りの入浴剤を湯船に入れて、思い切りむせたことがあった。
「あのタイプは入浴剤が完全に溶けてから入るのよ。」
子供のころから、お湯の中でシュワシュワと音を立てて小さくなっていく入浴剤でつい遊んでしまいたくなるのだが、むせてしまって以降興味がなくなった。
「ふう。」
乳白色の湯船からアロマな香りが立ち上る。おそらく何種類かの香りをブレンドしているのだろう。それが何かはよくわからないが、疲れた体をゆるゆると緩めてくれる感じがして心地よい。お湯には少しとろみがついていて、保温と保湿効果もありそうだ。…こんな入浴剤あったっけ?
「ああ、あれか。」
シャンプーボトルに紛れて、見慣れない小瓶のようなボトルが並んでいた。女性好みのおしゃれなデザイン。カラフルではないけれど、商品コンセプトに似合うパステルの色合いだ。
少し前に真希子が買った、デパコスの入浴剤だった。
「すっかり忘れてた。」
真希子の代わりに母は覚えていて、こんな雪の日だからと使ってくれたのだろう。実は真希子はそれほど入浴剤に興味はない。
鼻からゆっくり息を吸い込み、口から吐く。乾燥した体の隅々まで潤う感じがして、何回か続ける。ここのところ仕事も気が張って、体もあちこち張っていたからなあ。
「今度買い足しておこう。」
真希子はデパートコスメが好きだ。やみくもに欲しいものを買えるほど経済的余裕はないが、たまに行くと気分も上がって、なんだか幸せな気持ちになるのだ。そういう女性は少なくないはずだ。
 ほわんとした体と、久しぶりのコスメ売場に少し高揚した気分でお風呂からあがると、スマホが光っている。見ると隆史からだった。
「かぜhっひいた」
「スポーツ飲料しょうが紅茶おぬがい」
「あした」
ダイイングメッセージ(にしては長いが)のようなスタイルだ。変換ミスが具合の悪さを物語っているようだ。明日行こう。
「OK。お大事に」
真希子は短く返した。

 隆史とは付き合ってずいぶん経つ。もうとっくに新鮮味もない上、お互いドライな方なので、会わないときは全く合わない親戚みたいになってしまった。
ひょっとして浮気してるかもしれないけれど、今のところ疑わしいところは見当たらない。私が鈍だから気づかないだけで、実は羽目を外して遊んでいるんじゃないかと思ったこともあったが、隆史もこちらを疑ったことがあったらしい。似た者同士である。
途中でドラッグストアに寄った。指定の物以外に、元気になったときの食べ物とビタミンたっぷりのオレンジジュース。それから、簡単に食べられるお菓子をいくつか買った。
すっかり通いなれた部屋のチャイムを鳴らす。合鍵はあるのだが、本人がいるので一応の礼儀として。はい、と声がしたので、鍵を使った。
「入るよ。」
「わるい。助かる。」
まずは部屋の換気だな。窓という窓を少し開けて回る。といっても、小さな部屋だからすぐに終わるが。
「おお、さむっ。」
隆史は布団にくるまった。
「熱は?」
「まだある。」
体質なんだろうけれど、隆史は高熱がでるタイプで、40度近くまで出る。38度くらいではあまりダメージがないそうだ。一方の真希子はなかなか熱が上がらないタイプなので、37度でダウンするほど耐性がない。
鍋にお湯を沸かす。やかんとかポットとか、お湯を沸かす専用の物がないので、いつも鍋だ。そして、おろし金を取り出して、持ってきた生姜を皮ごとすりおろす。
生姜のガツンとした香りをくらう。鼻からゆっくり吸い込んで、しばし楽しんだ。
真希子の家では生姜が出てくることがあまりなかった。冷蔵庫にはチューブ入りのものしかなかったし、生の生姜がこんなにパンチがあるとは、隆史と付き合って知ったことである。
「風邪ひくといつもかあちゃんが作ってくれたんだよ。」
高い熱にうなされる息子を不憫に思ってか、隆史のおばさんはしょうがのすりおろしをたっぷり加えた紅茶を飲ませていたそうだ。
「うまくはない。でも効く。」
あつあつの生姜紅茶をフーフー言いながら飲む隆史は、確かにほてっている。熱が高すぎると体のあちこちが痛くなる。時々「あーっ」とか言いながら、なんとか紅茶を飲み干した。
生姜の発汗作用で熱が下がるのか、彼にとっては効果テキメンらしい。
「はあ。これで大丈夫。」
薬も飲んでいるはずだが、民間療法は絶大だ。「病は気から」ということでもあるのだろう。
「他に、何かある?」
椅子に掛けてあったスーツをハンガーにかけなおし、テーブルの上を簡単に片づけながら、病気の一人暮らしを想像する。真希子はずっと実家で一人暮らしの経験がないから、何が困るのかわからないけれど、母が寝込んでいる時のことを思い出しながら、簡単なことは手を付ける。
「とりあえず大丈夫。後はひたすら寝る。」
「わかった。」
「ありがとう、助かった。うつると困るから、早めの退散で。」
「はい。」
異存はないので、素直に部屋を出た。「何かあればまた連絡ちょうだい。」とだけメッセージを送った。
コイツのお母さんみたいだな。
そう思ったけれど、病人にわざわざ言うことでもないので、気にしないことにした。
 電車に乗って、大きなターミナル駅に向かう。隆史の家からは20分くらい。うちにも一本で帰れる駅だ。大手のデパートが3つ、お互い干渉しない立地で立っていて、真希子はそのうちの1つをメインに使っている。
 見慣れた入口を入ると、化粧品特有の匂いが鼻に来る。手前の総合案内のカウンターに座っている女性が会釈してくれた。久しぶりに寄ったので、歓迎されている感があって気持ちが高揚する。少しキツめの香水のような、インポートブランドの化粧品の香りなのか、正体はわからないけれど、この香りを嗅ぐと「あー、デパートに来たなあ」と思う。
化粧品売り場がデパートの1階にあるのには理由があって、地下の食料品の匂いを消すためだと、何かで聞いたことがある。それも一つかもしれないけれど、実は女性の購買欲を高めるために配置しているんじゃないかと、真希子は思う。
「なんか、変わってる?」
一時は頻繁に通っていたので、各店のフロアの配置も覚えていたが、しばらく来ないうちに変わったようだ。知っていたブランドのカウンターがなくなっていたり、売り場が縮小されている。
一周して、売り場を確認しよう。
キラキラと展示されているサンプルを眺めながら、ゆっくりと歩く。時々手に取ったり、商品パンフレットをパラパラとやる。
同じデパートコスメでも、若い人向けのブランドもあれば、お値段的にも効果的にも上の層向けのものもある。デパコスデビューした頃、いつ頃ハイクラスのブランドにたどり着くか考えたことがあったけれど、その時イメージしていた年齢に真希子はすでに届いていた。
「はあ。」
なんだか複雑。華やかな売場で幸せな気持ちになれると思ったのに、現実を嚙み締めただけだった。
「あほらし。」
気を取り直して、寄るつもりだったブランドを探す。いつもの場所に変わらずあって、少しほっとした。
「いらっしゃいませ。」
サンプルの前に立っている美容部員さんに声をかけられる。肌はとてもきれいだけれど、ちょっとお化粧が濃いかな。若いのにもったいない。
その若い美容部員さんに声をかけようとしたら、別の美容部員さんに声をかけられた。
「ご無沙汰しています。お元気でしたか?」
名札には「名取」と書いてある。あれ?顔は見覚えあるんだけれど。
「しばらくいらっしゃらなかったので、どうされているかと思っていたんですよ。」
何度かお願いしたことのある人だった。色白で目がぱっちりした、かわいいタイプ。肌がきれいなので、うらやましいと話したことがあったっけ。
「相変わらずおきれいですね。」
「いえいえ、とんでもないです。」
慌てて否定する彼女を見て、そうそう、こういうふうにおどける人だったと思いだす。
「今日はどうされました?」
入浴剤を買いに来たと告げると、
「お時間あればお勧めのアイラインがあるんですけど、試してみませんか?」
と誘われた。
「じゃあお願いします。」
営業をかけられているのはわかっているが、新しいメイクアイテムを試すのは楽しい。
カウンターに座ると、アイライン以外にもいくつか手にした「名取」さんが向かいに立った。
「軽くお直ししますね。」
ヨレたファンデーションをさっと整えてから、アイメイク(というほどやっていないが)を拭き取られる。ふっと香ったのは、ファンデーションの香りだった。名取さんの香り、思いだした。
「このアイライン、このアイシャドウと合うので使いますね。」
暗めのピンクのアイシャドウを控えめに塗った後、おすすめのアイラインを引いてくれた。
正直、何がお勧めなのかよくわからなかったけれど、名取さんのラインの引き方があまりに潔く、せっかくだからとアイシャドウも買った。
「お名前、変わりました?」
ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「はい、結婚したんです。」
うれしそうに報告してくれる彼女に「おめでとうございます」と告げて、売り場を後にした。
結婚かあ。
人生のイベント。人は当たり前のように結婚して子供と家を持つ。
なんだろうなあ。
私はとうの昔どこかに置いてきたけれど、その流れに乗れないと罪悪感や焦燥感を感じるのはなぜなんだろう。
以前、独身の同僚に話したことがあったが、
「子孫を残すっていう、本能的な意味もあるんじゃない?」
なんて言われた。なるほど、自分の子孫が残せないから焦るのか。
落ち着くことに興味がなさそうに見えた同僚は、その後すぐに寿退職したけれど。
じゃあ罪悪感は?子孫を残せない罪悪感?誰に?
子供を望んでもなかなか授かれない人は、パートナーだけでなく、親や親類にも悪いと思うことがあるという。
望んでいるなら、辛いよなあ。
 真希子は考えるのをやめた。答えが出ないのにぐるぐると考えても疲れるだけだし、この手の話は幾度となぐるぐるやっている。
そのまま地下の食料品に降りていく。いつもこのコースだったので、足が自然と向いたのだ。
ああ、明日はアイシャドウとアイライン使ってみよう。
買ったばかりのメイクをふと思い出し、気持ちを切り替える。名取さんほど潔くメイクができるか心配だったが、これでもそこそこ長く女性をやっているから、まあ大丈夫だろう。ちょっとミスってもリカバリ方法は心得ている。
アイシャドウも、ピンクは敬遠していたけれど、暗めだからわりと使えるんじゃないか。
そんなことを想像して、少し気持ちが上向きになったところで、懐かしい香りがしていることに気が付いた。ふと見ると、中華料理のお店に大きなせいろが置いてある。ここではいつも中華まんをふかしていて、辺りは点心の香りが充満しているのだ。
「わ、懐かしい。」
この景色、この香り。真希子はちょっとした幸せを求めて、売り場をブラブラした。
こうなったら、美味しいたくさん買い込んで発散しよう。
「デパ地下、リクエストある?」
母にメッセージを送ってから、美味しそうな匂いを吸い込んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み