第十章

文字数 4,360文字

 予定通り、真希子は入院した。それまでわりと健康には自信があって、入院なんてしたことがなかったので、病室は新鮮だった。テレビドラマなんかで見たまんまだ。
「お荷物は棚に。明日の手術までゆっくりしてくださいね。ああ、夕食は6時にお出ししますね。夜9時以降は食べられなくなりますから、しっかり食べてくださいね。」
案内してくれた看護師さんがにっこりと言った。
新しい建物と聞いていた通り、大部屋でもゆったりとした造りになっている。窓際の一つは空いているようだった。
設備や今後の予定の説明で、あっという間に夕食の時間になった。運ばれてきた盆には、煮物やおひたしといった、胃にやさしそうなメニューだった。
「こんな時間にご飯なんて、小学生以来?」
食器のカチャカチャという音が響く。部屋には出汁の香りが漂っていた。ああ、みんな同じメニューなのか。
考えてみればすごいことだ。
学校給食もそうだが、時間通りに病棟患者の大人数、しかも病院は食事管理しなくてはいけない患者も多いだろうから、間違えずに提供しなければならない。
「ありがたい。」
真希子はにんじんにつぶやくと、ぱくっと食べた。
 翌日、これまた予定通り、手術を受けた。手術室では主治医が待っていた。
「神谷さん、ちょっとだけ寝ててね。」
にっこりと笑うと、看護師に合図をした。
手術台に寝転ぶと、じんわりとあったかい。
明るい照明で目をつぶると、看護師が酸素マスクを付けながら言った。
「神谷さーん、ちょっと眠くなりますねえ。」
そう言われた次の瞬間、
「神谷さーん、終わったよー。」
と起こされる。
え?終わったの?
一瞬そうよぎったが、とにかく眠い。されるがままに病室に戻され、体にいろいろ取り付けられ(この辺りは朦朧としているのでわかっていない)、文字通り寝たきりになった真希子を看護師が頻繫に様子を見に来た。
 どれくらい眠っていただろうか。途中ふと目が覚めることもあるが、ただひたすら眠っていたので、日にちの感覚がない。
「神谷さーん、着替えましょうか。」
いくつかの管を取り外し、着替えたところでなんとなく認識できた。
「今何時でしょう?」
「ずっと寝てましたものね。朝の7時ですよ。」
「あー、そうですか。」
一日経っていたのか。手術の記憶をぼんやりと手繰るが、覚えているのはタイムワープした?と思ったことぐらいだ。麻酔ってすごい、と同時に、ちょっと怖い。
時計を見たかったのだが、あいにく持ってきていない。いつもスマホで時間を確認しているからだ。ずっとしまい込んでいたスマホを取り出すと、母からメッセージが来ている。
「先生から連絡頂きました。無事に終わってよかった。」
簡単に返信して病室を出た。手術後はなるべく歩いてください、と言われていたので、洗面がてら病棟をうろうろしていると、
「神谷さん。」
主治医に呼び止められる。
「おはようございます。顔色良いですね。」
「おかげさまで、体もそれほどきつくないです。」
病室に戻って、簡単に診てもらった。
「傷は痛みますか?」
「はい。でも、我慢できないほどではないので。」
医師はうん、うん、と頷くと、
「この分だと予定通り退院できそうですね。」
「ありがとうございます。」
 その日のお昼から食事が出た。これも予定通りなのだが、それにしても手術翌日から食事が出るなんて、すごいなあ。
真希子の入院は、拍子抜けするほど順調かつスムーズに終わった。退院日には母が迎えに来てくれた。
「ただいまー。」
ゆっくりとソファに座る。ふーっと息をつくと母が、
「お茶ね。」
と、熱々苦々茶を淹れてくれた。
「あーっ、これが恋しかった。」
入院生活はそれほど苦ではなかったが、唯一急須で淹れたお茶が飲めないことが不便だった。
「あっつ。」
そっと口に含むと、青い香りと温度をもろに受ける。体を伝う熱は心地よい。
「はあー。幸せ。」
 自宅療養と言われているので、しばらく出社は叶わない。平日に家で何もせず(療養しているのだが)にボーっとしていると、なんだかサボっているみたいで居心地が悪い。
 一週間の自宅療養を終えて、出社した。
「神谷さん!!お帰り!!なさい!!」
妙にテンションの高い片桐に迎えられ、席に着く。
「ご迷惑をおかけしました。」
「もう、良かった!!」
片桐はその日のランチを予約し、取引先へ出かけて行った。
「神谷さん。」
上司が席まで来てくれた。術後の経過は良好なのだが、まだ体に違和感はあるのでスッと立つことができない。
「ああ、いいよそのままで。」
お言葉に甘えて、座ったままにした。
「退院おめでとう。大変だったね。体調はどう?」
「はい、なんとか。」
元気です、というほどでもない。
「体調悪くなったらすぐに言ってね。今日もフルじゃなくてもいいから。」
上司の言うとおり、仕事もいきなりフルでやるのはちょっと怖い。でも、特に急ぎの仕事はなかったし、無理ない範囲でと思っていた。
「無理しないで、と言ったそばからなんだが、一つ対応お願いしたいんだ。」
やることがないよりずっといい。
指示を受けた仕事も、いつもやっていることだったので、特に負担にはならなかった。
「今週中でできたら。あ、でも、無理はしないで。」
「承知しました。」
 午前中はメールチェックしながら、元プロジェクトのメンバーが何人かお見舞いに来てくれて、気付けばお昼近くになっていた。
向こうから小山がやってくるのが見えた。
「神谷さん、今日復帰ですか。おかえりなさい。」
「ありがとう。わざわざ来てくれたの?」
「そりゃそうですよ。苦楽を共にしたプロジェクトの姐さんが無事に退院されたんですから。」
また不在の片桐の席に座る。こら、もうすぐ帰ってくるぞ。
「体調、いかがですか?」
「うん、大丈夫。」
午前中たいした仕事もしていないからか、今のところ順調だ。
「びっくりしましたよ。体調悪い中あのプロジェクトやってたって。」
「体調は悪くないのよ。まあ、体調崩して迷惑はかけたんだけど。」
「え?そうなんですか?」
どうもよくわからない、といった様子だ。と、ちょうどお昼になった。
「神谷さん、良かったら昼…」
小山が言い終わる前に、片桐が肩をポンとたたいた。
「ざーんねーん。お昼は私が予約済みです。」
「お帰り。お疲れ様。」
真希子が笑うと、小山が飛びのいた。
「じゃ、神谷さん、今度夜に飯でも。」
小山は何度も振り返りながら、そそくさと戻っていった。
「すみません、遅くなりました。」
ほぼオンタイムである。
「遅くなってないよ。もう行く?」
ゆっくりと立ち上がる真希子に、片桐が手を貸そうとしてくれている。
「介護かー!立てますってば。」
「ダメです。何かあったら神谷さんのお母様になんと言ってお詫びしていいか。」
 ランチタイムに混み合う人気のカフェレストラン。若い頃は席取りに積極的だった頃もあったが、最近はずいぶん足が遠のいていた。入口には順番待ちの列ができている。
「予約した片桐です。」
さすが片桐だ。隙がないなあ。
店員はテーブルの「RESERVED」札を片づけると、タブレットで注文するように言った。
「任せてもらっていいですか?」
「うん。」
片桐はタブレットをスワイプすると、注文を終えた。店員を捕まえて注文するより、ずっと早いし確実だ。
同じタイミングで水を飲むと、片桐が言った。
「今は体調どうですか?」
「うん、大丈夫。」
片桐がちょっと顔を寄せる。
「神谷さんと同じような手術した友人にいろいろ聞いたんです。やっぱり内臓に負担がないメニューがいいって。」
単純に考えて、今まであったものがなくなっているわけだから、体も戸惑っているはずだ。違和感があるし、時々お腹も「キュルー」なんて音がする。
「でも、本当に順調で良かったですね。」
「時々鈍く痛むこともあるけど、お医者さんも珍しいくらい何もないですねって。」
それから片桐は、その友人から仕入れたという情報を真剣に教えてくれた。片桐も同世代だし、いろいろ思うこともあるのだろう。
片桐は自分のスマホを取り出すと、
「食べ物ですよ。やっぱり。人間は食べたものでできてますから。」
スワイプすると、印籠のように画面を見せられる。
「今度、ここに付き合っていただけません?お休みの日になっちゃいますけど。」
拝借して見てみる。どこかのホテルのホームページだ。
「このランチプラン?」
ビュッフェではなく、コースのようだ。魚がメインの献立になっていて、デザートもフルーツ類が豊富。
「へえ。良さそう。どこ?」
聞いたことのないホテルだった。確かに、スワイプすると〇〇ホテルとある。
「うん?」
流れていった画面の残像が気になった。戻ると、有名な3段のプレートに、小さなケーキやパンが並んでいる写真に『アフタヌーンティープラン』と書いてあった。
「ランチとかディナーとかやっているホテルって、有名どころが目につきますけど、それほどランクが上でないところでも結構人気があるんですよね。」
「確かに、ネットニュースとかだと誰もが知っているホテルが多いもんね。」
「私休み入っちゃうんで、明けてからでも大丈夫ですか?」
「うん、いいよ。日にちいくつか頂戴。」
「やった!了解です。」
ランチから戻ると、電話メモが置いてあった。関本からだった。メモには『また電話します』にチェックがあったが、真希子は内線をかけた。
「あ、すみません。」
「ごめんね、電話頂いて。」
「あの、退院されたって聞いて。大丈夫ですか?」
「うん、おかげさまで。関本君にはいきなりいろいろお願いしちゃってごめんね。」
イントラの引継ぎは関本にお願いした。資料部長は渋ったが、そこは上司が上手く説得してくれた。
「それで、ちょっと質問がありまして。少し時間いいですか?」
「うん、大丈夫よ。ただ、まだ体が本調子じゃないの。関本君来てもらえると助かる。」
「わかりました。」
 夕方、関本がやって来た。
「隣は外出しているから、座って。」
片桐の席を勧める。関本は周りを見回すと、恐る恐る腰掛けた。
「どうしたの?」
「いえ、あの、こちらの席の方…」
小山から何か聞いているのだろう。ちょっと笑ってしまった。
「で、質問って?」
仕組みはいたって単純で、システムと呼ぶのもおこがましいほどだ。ただ、設定しなければいけない項目が多く、画面遷移が分かりづらいため、今自分がしていることわからなくなり迷子になることがしばしばある。慣れてくればなんてことはないのだが、使い始めは混乱する。
いくつか質問に答えて、情報を整理する。ちょっとした便利機能なんかも教えてあげると、関本は深く頷いた。
「なるほど。これは便利ですね。」
「また何かわからないことがあったら、いつでも聞いてね。」
レクチャーは終わったが、関本は何か言いたそうだ。
「どうかした?」
「あの、実は神谷さんに相談がありまして。」
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