第十三章

文字数 5,570文字

 12月に入って、会社で異動が出た。
片桐が年末に退職するので、関本が異動してくる。
片桐は退職後、夫の海外転勤に合わせて渡英する。休暇のイギリス行きはその下見だったのだ。本人は私物の整理を済ませ、有休消化に入っている。
今までと全く違う新しい世界に飛び込んでいく片桐に不安はないのか聞くと、
「まあ、なんとかなりますよ。っていうか、やることありすぎてそこまで考えてないです。」
と笑っていた。さすが、肝が据わっている。
「よろしくお願いします。」
「関本君、よろしくね。」
荷物が少ない関本は、引っ越しもあっという間に終わってしまった。デスク回りはすっきり、というよりも、ほとんど物がない。
片桐が隣にいた景色が長いこと続いたので違和感があるが、まあそのうち慣れるだろう。
隣の席は変わっても、私はなーんにも変わらないな。
なんだかなあ。周りから置いて行かれているような気持ちは、この歳になっても変わらない。でも、希望と期待を持って異動してくる関本には、いくらか元気をもらった。
数日後、片桐の餞別相談がてら遊びに来た小山が言った。
「関本、なんだか明るくなった?」
「明るくなったわけでは。」
小さな声で関本が答える。
「ここは嫌でも人と関わるからねえ。」
「あー、でも画面は変わらないのね。」
小山がふっと笑う。真希子がPC画面を覗くと、何かのアニメのイラストがデスクトップに映っている。異動してきた日にちらっと見たのだが、特に声はかけていなかった。
「これって、何のアニメ?流行ってるの?」
真希子が聞くと、関本は首をふった。
「アニメじゃなくて、ゲームのキャラクターなんです。僕、このゲームが好きで。」
関本の趣味としては全く違和感がなくて、納得して深く頷いてしまった。
「へえ。」
「昔からあるゲームなんですが、世界観が好きで。」
聞いても良くわからないのだが小山も知っているようで、二人でていねいに説明してくれた。
「…って、知らないですよね。」
関本ががっくりして言った。
「関本、泣くな。お前だって女性の化粧品の事はわからんだろう?」
「確かに。」
ゲームとコスメを並べられても…と思ったが、それくらい専門外ってことだけは理解できる。
「関本じゃあ女子トークはできませんからねえ。」
小山の一言が、何となく心に残った。

片桐がいなくなる寂しさと、自分だけ変わらないんじゃないかという焦りのようなものを抱えて、真希子は「黒猫」のドアを開けた。
「いらっしゃい。」
ニイミさんに会釈をして、カウンターに座った。
「ブレンド?」
マスターに聞かれてうなずきかけたが、
「あ、ちょっと待ってもらえますか?」
と、メニューを手に取った。
改めてこの店のメニューをじっくり見る。ほとんど初めてだ。
表紙も中も、相当年季が入っている。インクがビニールカバーに移ってしまって、少々見づらい。
「紅茶、ください。」
ニイミさんは驚いているようだった。マスターはやさしく笑うと、
「茶葉は?」
「あまり香りが強くないものを。」
紅茶の種類には詳しくないのでお任せする。
「紅茶久々だからちょっと時間かかるけど。」
「お願いします。」
「はいー」
マスターが奥に引っ込むと、ニイミさんが言った。
「紅茶なんて珍しいねえ。」
「確かに、ここといえばコーヒーですよね。」
でも、いつか母が言っていたのだ。ここのマスターは紅茶にも詳しいのだと。
ニイミさんも知っていたようで、
「マスターも久々に腕が鳴るんじゃない?若い頃はコーヒーより紅茶の方が好きだったらしいから。」
ずいぶん若い頃、マスターは理想の茶葉を求めて、産地を周ったことがあるらしい。
「結局、喫茶店やるならコーヒーってことで、今に至るらしいけど。」
しばらくすると、マスターが小さなお盆を持ってきた。
「これ、もらいもんだけどどうぞ。」
カップの横に、大判のクッキーがある。
「いいんですか?」
「もらいもんだから。」
店に広がるコーヒーの香りの中に、かすかに紅茶の香りを嗅ぎ取ることができた。
真希子は受け取ると、ふんわりと香りがのぼっているカップを鼻に近づけてゆっくり吸い込んだ。
「マスター、これって砂糖入っていますか?」
「いや、入れていないけど。」
もう一度鼻を近づけて、深く吸い込む。
マスターがニコッと笑って言った。
「茶葉によっては甘い香りがするものもあるからね。」
マスターが出してくれた紅茶は、何種類かを混ぜたブレンドらしい。
「この時間だし、本当はハーブティなんかがいいんだろうけど。まあ、コーヒーとか緑茶よく飲んでるから、あんまり気にしなくていいか。」
「そうですね、大丈夫です。」
笑うと、紅茶を一口含んだ。
小さく息を吐いて、紅茶特有の苦みというか、渋みを味わう。
甘くない。
アフタヌーンティの時の紅茶は全て甘かったが、この紅茶はほっとする。なんだかなあ、が、少しだけ浄化された気がした。
クッキーを開けると、また違った香りがふんわりと立ち上った。
アールグレイのクッキー。こちらも鼻に近づけて、大きく息を吸い込んだ。
「ここまで香ってくるよ。」
ニイミさんが笑った。
紅茶とクッキーを堪能していると、スマホが鳴った。メールだ。母からかと思って見てみたら、三島からだった。
「送ったつもりでいました。直前に申し訳ありません。」
須永のクリスマスコンサートのプログラムが添付されている。
「あー。」
書かれている内容に、真希子は思い当たる節があった。日にちはギリギリ、でも、声をかけるだけかけてみようか。

クリスマス前の休日、真希子と関本、そして小山も、例の結婚式場の前にいた。このコンサートで推しのゲーム音楽を演奏するからと、関本に声をかけてみたのだ。
「え!!行きます。」
推しゲームに関しては積極的で、二つ返事だった。
「休日に予定があることはまずありませんから。」
関本から話を聞いた小山も参加したいと申し出があり、慌てて席数を三島に確認したのだ。
「こんばんは。今日はありがとうございます。」
三島が須永とやってきた。
「いえ、大勢で押しかけまして。」
「関本さん、ご無沙汰しています。」
三島と挨拶を済ませると、関本は須永と曲目の話を始めた。
「くうーっ!わかってらっしゃいますね。」
「お好きなんですねえ。」
「はい、シリーズは全てプレイしていますので。」
「ゲームファンの方がいらっしゃると、いささか緊張しますね。」
「そうなんですか?」
小山が意外、といった風に返すと、
「ええ。原曲にこだわりをお持ちの方も多いので。」
須永の話に、関本が神妙な顔でうなずく。
「別物、と思って聞いていただけるとありがたいです。」
「わかりました。」
それでも、気分が高揚しているのか、キラキラした目でレストランを見回している。
ワンドリンク、小山と関本はビールを、三島と真希子はウーロン茶を頼んだ。
 客席が暗くなると、ステージ(と言っても、一段高くなっているだけなのだが)に、須永とピアニストが現れた。
お辞儀をしてから、演奏を始める。聞いたことのある有名な曲が何曲か続いた後、MCを挟んでゲーム音楽パートが始まった。
「はあっ!」
関本が驚いてしゃっくりした。目を見開いて、須永の指先を凝視している。小山も小さな声で「すごい…」と感嘆した。その声が聞こえたのか、三島は嬉しそうだった。
真希子は、やはりその曲は知らなかったが、会場が驚きと感動の空気になっていることに気が付いた。簡単に言ってしまえば、素晴らしい演奏だった。
ワクワクするというか、高揚感がすごい。関本的に言えば、これから始まる冒険(ゲーム)に対する期待感が高まるような。
ゲーム、やってみようかな。
意外な考えに思い当たり、真希子は一人苦笑した。
「本日は、ゲームがお好きな方もたくさんいらっしゃっているようで。どういうきっかけであっても、本日いらしていただけたことは、ある意味『運命』なのではということで、この曲を。」
客席の何人かから「え?マジ?」という声が上がる。関本も「え?え?」と、オロオロしている。
静かにギターから始まると、関本がぐっとガッツポーズしているのが見えた。
「なに?」
意味が分からず小山に聞くと、
「このゲームの隠れた名曲と言われている『運命と必然』という曲です。いくつかあるシリーズ中あまり使われていないのですが、好きだっていう人多いんですよ。」
「へえ。」
声が大きかったのか、関本に「しっ!」と怒られた。真希子と小山が吹き出す。
そこからはリクエスト大会、関本も「なんとか!」と叫んでいた。
コンサートは大盛況(アンコール2回、おまけでもう1回)、万雷の拍手といつのまにか三島が持っていた花束を関本が強引に奪い(?)、須永に渡してお開きとなった。
「素晴らしかったです!!素晴らしかった!!」
関本は顔を紅潮させ、興奮が収まらないと言った様子で、小山に絡んでいた。
「わかった、わかったよ。」
まさに、推しの力。
真希子はこれほどまでの熱量を放った、今まで見たことのない生き生きとした関本をちょっとうらやましく思った。
「私もゲームやってみようかなあ。」
帰り道、真希子がボソッとつぶやくと、小山が驚いて聞いた。
「神谷さん、マジですか…。今日はみんな一体どうしちゃったんだ。」
「え?ゲームしちゃだめ?」
「あー、えー、いや、そうじゃないんですけれど。」
「そういえば、あの曲ってプログラムになかったよね?」
真希子はスマホを取り出して、三島が送ってくれた本日のプログラムを見返した。
「ゲーム好きが多いと聞いて、急遽入れたみたいです。」
三島が解説すると、
「!!素晴らしい!!」
関本がぶんぶん頷いた。他の3人は苦笑である。

「片桐、元気でねー。」
「お世話になりました。」
年末の最終営業日、片桐の退職の挨拶でびっくりしたのが、小山が泣いていることだった。
「何?なに?」
「だってさ、俺はさ、お前を同士だと思ってたんだよ?」
「私も同士と思ってるよ。」
「これから一人で戦ってくんだぞ。」
真希子の同期は、ここまで仲良くないが、たまに顔を合わせると少し愚痴ったり励ましあったりして、ホッとしたりするものだ。毎日のようにじゃれあっていた相手がいなくなるのだから、そりゃ寂しいに決まってる。
「まあまあ。私もいるじゃない。」
小山の背中をさすりながら、真希子がなぐさめる。
「そうだ!神谷さんがいる!」
小山は思い直すと咳ばらいを一つしてから、
「神谷さんは任せろ。」
と、片桐に向かって胸を張った。
「片桐、小山はこっちで何とかするから、安心してね。」
真希子が耳打ちすると、片桐が手を合わせる。
「すみません!大きな荷物を背負わせて。」
「本当にこの期は、困ったのが多いなあ。」
冗談めかして言うと、片桐が神妙にうなずいた。
「本当に、お世話になりました。」
「遊びに行くからね。」
「アテンドできるようにしておきますね。」
そうして、片桐は元気にイギリスに旅立っていった。
 年が明けて、真希子は寝不足が続いていた。お正月休みの間、関本に教えてもらったスマートフォンのゲームをやりすぎたのだ。
「神谷さん、以前のナンバリングならハードを買わなくても今スマホでできます。」
そう言われて、ゲームを買おうとしていた真希子は拍子抜けした。あまりに手軽に始められるので、気が付くとゲームをやってしまい、さすがに母に怒られた。
「この歳になって子供のゲームで怒るとは思わなかったわ。」
「…すみません。」
関本推しのゲームはRPGだったので、キリが悪いとなかなかやめられない。それに、びっくりしたのは、ゲームをやるのにはこんなに体力を使うのか、ということだ。
「はあ、疲れる。」
でもそこは大人。あまり執着しないタイプなことも助けられて、時間やタイミングをコントロールして、無理はしないようにしている。
だから、出社して関本に進みを聞かれて、驚かれた。
「え?まだそこですか?」
「そんなにサクサク進めないよ。」
「もう中盤くらいは終わってると思ってました。」
「やるたびに疲れて、こっちが『かいふく薬』欲しいくらい。」
関本が笑った。『かいふく薬』はゲームに出てくるアイテムだ。
「そうですね。」
何日か睡眠不足の後悔を重ね、結局真希子のゲーム時間は、休日に少しやることで落ち着いた。
一週間のうち、ゲームの時間はそれほど多くないはずなのだが、やはり家にいる休日にゲームをしているので、母には集中しているように見えたのだろう。
「ゲーム、そんなに面白いの?」
「ううん、正直疲れた。」
「あは。」
母はスマホを覗き込むと、
「画面が小さいから疲れるんじゃない?」
確かに、テレビ画面の方が楽だろう。近頃、老眼の気配も感じるようになった真希子は、ぎゅっと目をつぶった。
「ねえ、これってどうするの?」
気付くと母はわざわざ老眼鏡をかけて、真希子の画面をのぞき込んでいた。
「やってみる?」
簡単に説明する。と、母はすぐに要領を得たようで、しばらく画面に向き合っていた。真希子は熱々苦々茶を淹れて、ぼんやりと母を眺めた。
実年齢よりずっと若く見えるのは、バリバリとはいかないがまだ現役で仕事をしているからだろう。バイタリティもあるし、体力も真希子よりあるかもしれない。
何より、こうして新しい物に興味を持ってとりあえずやってみるあたり、素直に母の性格を表している。
「これ、おもしろいね。」
 数日後、なんと母はゲーム機とソフトを購入し、テレビに繋げてプレイしていた。
「ええ!!」
この行動力よ。
「ゲーム機でできるのは、あなたのより古いのしかないんだって。」
画面に映し出されているのは、真希子のゲームより何作か古い物らしい。見てもよくわからないが、スマホでやるより画面が見やすいことだけはわかった。
「こっちの方が目が楽だね。」
「そりゃそうよ。」
テレビでも老眼鏡だが、母は楽しそうである。
「おかげで新しい趣味ができたわ。」
それは、良かったね。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み