第十四章

文字数 1,543文字

 年度末に向けて、じわじわと業務が追いかけてくるのを見ないふりをして、カップの緑茶をズズっと啜った真希子は隣に声をかけた。
「関本君、今日も?」
「はい。」
デスクの下には窮屈そうにギターケースが押し込んである。
あのクリスマスコンサート以来、ギターに興味を持った関本は、須永の知り合いからギターを習い始めた。目標は推しゲームの曲を弾けるようになる、である。
「手首が痛いです。」
簡単に弾いているように見えるが、弦を押さえる(コード?)のは意外と難しいそうだ。
「神谷さんもどうですか?」
関本に誘われたが、小山と一緒に辞退した。
「そういえば、神谷さんの母上、どの辺までいきました?」
母のゲームの話をしてから、関本は時々アドバイスをくれる。真希子は伝達係だが、おばあちゃん程歳が離れているのも気にせず、「今度一緒にやりましょう!」なんて、恐ろしい提案までしてくるようになった。
「関本、変わったなあ。」
小山がぼやくと、
「なんか、変わってないの私達だけじゃない。」
真希子が応じた。
「え!?一緒にしないでくださいよ!!」
「それはこっちのセリフです。」
だんだん片桐の立ち位置に仕立てあげられている気もするが、それはそれで面白い。
小山とコンビなんて、考えもしなかったけれど。

ニュース番組の地域の話題で、早めの沈丁花開花の便りを報じていた。
「ああ。」
もう春か。真希子の住んでいるあたりはもう少し後になるだろうが、まあ季節の巡りの早いこと早いこと。
ぼんやりとテレビを眺めていると、母に声をかけられた。
「なに?何か事件?」
真希子が沈丁花の話をすると、
「ふうん。」
母は気のない返事だった。
「ねえ、私小さい頃にあの香り嗅いだことがある気がするんだけれど。」
いつか感じた懐かしさの疑問を口にすると、母はふっと息をついてから言った。
「昔まだお父さんと住んでいたアパートの入口にあったのよ、沈丁花。それかねえ。」
父親の顔は思い出せないけれど、アパートの入口の風景はぼんやりと思いだしたような気がした。
「壁が薄い緑のアパート?」
「そう。一階だったからよく香ってきてね。」
そんなに遠い記憶。
「あなた、わりと匂いに敏感だったみたいで。窓辺に行っちゃあクンクン嗅いでたわよ。」
ひょんなタイミングで自分のルーツを聞いた気がした。元々嗅覚は敏感だったのか。
「ふうん。」。
「そうだ。」
母が何か取り出して見せた。
「話は変わるんだけれどね。この前会社に保険のセールスが来てね。」
パンフレットを広げて、まるで母がセールスするみたいだ。
「あなたも、見てみなさいよ。」
あまり乗り気じゃなかったが、バラバラとめくりながら熱々苦々茶をすすった。
「生命保険だね。」
真希子も、将来の(老後の)ことを考えていないわけではない。医療保険には入っているし、貯金もしているし、会社の資産形成プログラムも利用して蓄えている。こういう機会がある度に、自分に必要なお金については考えたり、情報を集めてみたりもしているつもりだ。
案内の冒頭には、「あなたのライフステージは?」とあり、それぞれの階段に「就職」「結婚」「出産」と書いてあった。ご丁寧にそれぞれのライフイベントの平均年齢まで書いてある。今どきちょっとどうかと思ったが、古いパンフレットなのかな?と思い直す。
就職したのは遠い昔。ありがたいことにそれなりに続いている。結婚はするつもりもないし、出産はもうできない。
その後に続く「老後」についてはやがて来るのはわかっているが、自分よりまず母が先だ。
真希子はじーっと見て、それからつぶやいた。
「このライフプランに、私はいないかなあ。」
「え?」
母が聞き返す。
「だから、私、ここにいないのよ。」
私の人生、何も起こらないじゃないか。
真希子はふふっと笑って、パンフレットを閉じた。
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