第七章

文字数 5,698文字

 その日は朝から体調が悪かった。元々真希子は月のモノが近くなると体調が悪くなることがあるのだが、ここまで重いのは久しぶりだ。布団の中でため息をつく。
「あー、やばいなあ。」
このままずーっと眠っていたい。起き上がるのも覚悟がいる。仕事の疲れが心身ともにだいぶ積み重なっているから、きっとそれだろう。自分の体は自分がいちばんわかっている。
今日は午後に取引先との打ち合わせが入っていて、進捗だけでなくある程度の成果を報告する必要があった。ここ数日は今日のためにかなり無理をしていたし、今日を何とか乗り切れば、プロジェクトもだいぶ楽になるはずなのだ。仕方なく起き上がり、熱々苦々茶を一口だけ飲んで家を出た。
出社すると、片桐に呆れられた。
「顔真っ白ですよ。なんで出てきたんですか。」
「今日は休めないんだよ。」
「ああ、とりあえずの目標日、今日でしたっけ。」
返事の代わりに真希子は深く息を吐くと、パソコンに向かった。片桐は何も言わないで席を立った。
今日のタスクをチェックすると、頭が仕事モードになるからか、体調のことを少し忘れられた。
「はい。」
戻ってきた片桐はカップ式の自販機で買った緑茶をくれた。
「あーっ、ありがとう。助かる。」
早速ズズっと口に含んだ。温かい(というよりは幾分熱い)ものが食道を通って、胃に落ちていくのが分かる。真希子が体調が悪い度にそうしているのを見て、知っていてくれたのだろう。これなら何とか乗り切れそうだ。真希子は片桐を拝むと、作業を続けた。
が、時間が経つにつれて悪化しているのが分かった。ああ、これは確実にいつもと違う。
「参ったな。」
昼休みに何か温かいものを食べれば少しは落ち着くだろう。それから、できれば10分くらいウトウトしたい。そう希望を持ったのだが。
真希子の体調は残念ながら回復せず、12時をまわる頃には席でうずくまってしまった。目をつぶってひたすら不快を逃すが、間に合わない。
やさしく肩をたたかれる。薄目で見上げると片桐と目が合う。
「神谷さんアウトです。帰りましょう。荷物これでいいですか。」
手早く真希子の机上を片づけ、カバンとジャケットを手に取る。
「私、これから取引先に行くので。途中まで一緒に行きますから。」
なんと、すでに上司と小山にも連絡済みとのこと。片桐、できるなあ。
「ごめん、迷惑かけてる。」
「私の方が何倍もかけてますから。」
のっそりと出口に向かう間にも、何人も目を丸くした後輩たちが、「大丈夫ですか?」「お大事に」声をかけてきた。
「私、そんなにヤバい?」
エレベーターで片桐に聞くと、
「ええ、生けるシカバネみたいですよ。我慢しすぎ。」
なかなかひどい言葉を投げてくる。それがやさしさだってことも、知っているんだけれど。
「それから小山が「ちょくちょく打合せしていたし、アシスタントの二人?も進捗把握しているから、心配しないで休んでください」って。」
すまない、そしてありがとう。
ああ、なんか気持ち悪くなってきた。
「神谷さん、大丈夫ですか?タクシー来ましたよ。」
どさっと乗り込むと、片桐がスマホを見ながらうちの住所を告げた。
「神谷さんのスマホ、カバン失礼しますよ。」
そして、どうやって操作したのか、母に電話している。
「真希子さんお送りします。ええ、できればお願いします。」
母は出勤していたのだが、片桐の電話で抜けてくると言ってくれたようだ。
結局片桐は取引先に30分程遅れると連絡してくれて、家まで付き添ってくれた。
「落ち着いたら病院行くんですよ。」
母か?片桐か。誰が声をかけてくれたのか、もう判別できない。
真希子は何度もありがとうを繰り返し、部屋に入った。
もうろうとしながらベッドに潜り込む。少しして、母が帰ってきた頃にはすでに落ちていた。
 結局真希子は翌日も休んだ。ご飯も食べずにただひたすら眠っていた。
復活できたのはその日の夜だった。
「回復に時間がかかるようになってきてる。」
母が淹れてくれた熱々苦々緑茶を飲みながら、がっくりとうなだれた。
「明日会社行くなら、これ持っていって。」
母が小ぶりの紙袋を見せてきた。「黒猫」の紙袋だ。
「「黒猫」行ったの?」
「前に片桐さんにあげたら喜んでたって聞いたから。くれぐれもお礼言っておいてね。」
そうだ。片桐にはお礼をしないと。
「うん、ありがとう。」
「週末、病院だったよねえ。今回の事きちんと話すのよ。」
「はあい。」
そうだ。結局仕事の忙しさと今回の体調不良で、治療をどうするか決めていなかった。何度か母に心配されたが、それどころではないとスルーしていたツケである。
どうしようかな。
この際誰か決めてくれ。どうなっても責めたりしないから。
「はーい、ごはん。」
母が作ってくれたうどんをすする。
「痩せた?」
食べてないからその分か、たぶんやつれたんだろう。ううん、とほおばりながら首をふった。
「全部食べられる?」
今度はうん、とほおばりながら頷く。まだ回復していないと感じたのか、母は眉をひそめた。
「明日から復帰して、本当に大丈夫なの?」
ほおばりながら首をかしげた。復活したのは体調だけで、決めていないし休んじゃったし、病気も仕事も、なんにも大丈夫じゃない。
 翌日、出社すると何人かに声をかけられた。もういいんですか?大丈夫ですか?と、あまりに心配されたので、こちらが申し訳なくなる。
「お騒がせしました。」
上司に謝りに行くと、
「いや、負担をかけすぎた。申し訳ない。」
と、逆に頭を下げられた。
「すっかり神谷君と小山に任せてしまっていたから。進捗は追っていたつもりだったんだが。もう少し首をつっ込まないとね。ああ、いやあ、君達がやり辛くならない程度にだが。」
めずらしく弱気になっているように見えた。誰かに怒られたのかしら。このプロジェクトの責任者は上司だけれど、他にもたくさん業務を抱えて忙しいことは知っていたし、だいたい上司なんてそんなものだと思っていたので、逆にびっくりした。
席に戻ると、片桐が来ていた。
「ご迷惑をおかけしました。ありがとう。これ、母から。」
母からのコーヒーを渡すと、片桐は首をふった。
「いえいえ。元気になって良かったです。もういいんですか?」
「うん。そういえばあの後、商談大丈夫だった?」
「全く問題なかったですよ。わ、これ前にも頂いたお店のコーヒーですか?すごく美味しかったんですよね。かえってすみません。お母様によろしくお伝えください。」
わーいペーパードリップ!なんて喜びながら屈託なく笑う片桐は余裕がある。商談も無事に済んだというのは本当なんだろう。
「神谷さん。」
「うん?」
「お互い無理できなくなってるんですから、ほどほどでね。」
含みのある顔でこそっと耳打ちしてくる。頼れる同世代がいてくれるのは、本当に心強いものだ。
「そうね。」
二人でくくっと笑うと、仕事に取り掛かった。
メールがいくつか届いていた。一昨日の取引先との打ち合わせのまとめと、昨日の進捗、それから、渡からはお見舞いのメールが来ていた。
「みんなのところにも行ってこないとね。」
せっかく先にプロジェクトの進捗報告メールを見たので、確認したいことを持っていけば二度手間にはならないだろう。
ざっと目を通すと、一昨日でひと段落ついたこと、しかしいくつか修正点があることがまとまっていた。関本がまとめたようだが、要点がわかりやすい。
「神谷さん戻ったら、一度打合せしましょう。」
そう結んであったので、まずは小山に内線をかけた。小山はいなくて、頼田が出た。
「取引先直行って聞いてます。昼前には戻る予定です。戻ったら電話させますね。」
お願いして電話を切ると、今度は渡にかけた。
「大丈夫ですか?」
「わざわざメールありがとうね。打ち合わせ報告、一通り読みました。渡さんは打ち合わせどうだった?」
「はい、話をしていてもわからない部分もありませんでしたし、修正がいくつか必要な理由も理解できました。修正方法について、後で相談したいんですけど。」
「今小山君いないみたいだけど、できそうだったら少し打合せしよう。関本君にも聞いてみるね。」
「空いている会議室押さえておきますね。」
続けて関本に連絡すると、大丈夫だというので、10分後にC会議室集合ということになった。
「片桐、C会議室いるから。小山君から電話あったら伝えておいて。」
「りょーかい。」
「黒猫」のコーヒーを早速入れて、ご満悦である。
「リラックスしすぎ。」
真希子は笑うと席を立った。
 会議室にはすでに二人が待っていた。
「おはようございます。」
真希子は一昨日の件を詫びると、二人ともねぎらってくれる。
「もういいんですか?」
「うん、ずっと寝てたから、すっかりいいよ。」
「よかった。」
「じゃあ、さっそく確認しちゃおうか。」
いくつか質問しながら、わからなかった点を埋めていく。
「うん?ここってさっきとつじつま合わないね。」
「そこなんですけれど。」
こちらでの対応は無理なので、先方の社内で対応をお願いしているが、なかなか承諾してくれないということだった。
「小山さん、今行ってるんで、何か変更点とか持って帰ってくるかもしれません。」
「え?」
取引先って、別のところだと思っていた。
「これの為に行ってるの?」
関本がコクリと頷いた。
さっき上司は何も言ってなかった。
「小山君一人で行ったの?」
「はい。」
時計を見ると、9時40分を過ぎていた。朝一だったらもう先方にいるだろう。
渡が画面を見せてくる。
「一応、想定した質問とその回答、補足で使えそうな情報はまとめてあります。」
「わかった。一旦小山君に任せよう。」
今のところの問題点は、小山が対応している点だけだった。それを除いた現時点での作業と、今後の進め方に変更がないかを確認して、打合せを終える。10時半を過ぎていた。
 小山が帰社したのは、お昼近くになってからだった。
「小山君、一昨日はご迷惑をかけました。」
頼田から伝言を受け取った小山は、わざわざ席まで来てくれた。
真希子が言うと、小山は離席している片桐の席に座って、話し出した。
「大丈夫ですか?片桐に聞いて結構ヤバいなと思ってたんですよ。だいぶ負担かけてしまってましたものね。」
「ううん、今小山君一番背負ってるよ。」
「いえいえ、本質部分は神谷さんいないと回らないです、ホント。」
前置きはここまで。
「さっき行ってきたんでしょう?ごめんね、知らなくて。」
「これねえ。」
小山がふーっと息をついた。
「今日のは半分神谷さんなんですよねー。」
え?
「何?私?」
片桐が戻ってくる。自分の席に小山がいるとわかると、片桐の目が三角になった。
「ちょっ、席!」
怒れる同期には目もくれず、小山は後ろの椅子を拝借して続けた。
「一昨日ですよ。なんで神谷さんいないのって。」
要約すると、真希子がいないことで打ち合わせがスムーズに行かないのでは、という懸念があり、ちょっとした部分も三島が引っかかって、改めて説明を求められたのだそうだ。
「いつもあるフォローがないから、不安になったって言ってました。」
プロジェクトも本格的に動いてきて、だんだんイメージが形になってきて、同時に疲労も溜まって、問題点も思ったより深刻だったりして、煮つまり感も出てきて。
「じゃあ、特に変更点とかない?」
「はい。問題解決してます。後で関本と渡にもメールしときます。」
小山はこの案件の他にも通常運転で担当している先がいくつかある。そちらもやりながらなので、突発的な問題は迷惑でしかない。
「余計な仕事増やしちゃったね。ほんとごめんね。」
「いえいえ、俺で済むなら安いもんです。でも、神谷さんはこの案件の安定剤みたいなところありますからね。」
「あんたじゃあ不安になる気持ち、わかるわあ。」
横から片桐がちゃちゃを入れる。
「もちろん、体調ですからあっちもわかってくれていたんですけどね。」
小山が行ってくれたことで片付いたようだが、一応先方に電話しておこう。迷惑をかけたことに変わりはない。
「ありがとうね。」
小山はすっきりした顔でランチに行ってしまった。真希子はふーっと息を吐くと、ぎゅっと目をつぶった。ああ、疲れた。病み上がり初日の午前中にしては、ずいぶん頑張ったと思う。
「神谷さん、ランチ?」
「うん。」
片桐もランチモードだったらしい。こういう時は何も考えずに席を立つに限る。あれこれ考えても徒労に終わるだけだ。
「行くかい?」
「ふぁああい。」
お詫びも兼ねて片桐におごった。
「コーヒーもランチも、ごちそうさまです。」
「いえいえ、迷惑料。安いけど。」
片桐は首をふった。
「迷惑なんて。」
義理堅いのは世代なのか。片桐の入社当時、真希子は教育係だった。まっすぐで不器用なところが危なっかしく、その割には繊細で心配なタイプだ。一緒に過ごすうちに、真希子が緩いタイプだったのが影響したのか、みごとに自分の機嫌を取れるベテランになった。さっぱりした付き合いだったので、真希子も楽だった。
会社に戻ると、名刺ホルダーを取り出す。名刺交換なんてめったにしないので少ないが、頂いたものはファイリングしてある。
「えーっと、ああ。」
同じデザインの名刺が3枚並んでいる。「課長 三島」の文字を見つけると、電話をかけた。
「神谷さん。もうお加減いいんですか。」
「すみません、ご迷惑をおかけして。」
一昔?前の人間だからか、電話に向かって頭を下げる。これをやらないと失礼な気すらする。
「午前中小山さん見えられて。お手数をおかけしてしまいました。」
「ええ、小山から聞いています。ご不明点は解決しましたでしょうか。」
いくつか簡単な質問を受ける。想定内だ。午前中の打ち合わせで渡が見せてくれた資料を覚えていたので、そつなく答えることができた。
「わかりました。すみませんね、細かくて。」
「いえ。また何かありましたらご連絡ください。」
それでは、と、電話を切ろうとすると、
「ああ、神谷さん。」
三島が言った。
「はい、なにかありました?」
電話口でためらっているのが分かった。なんだろう、怒られるのかな。
「いえ、何でもないです。引き続きよろしくお願いします。あ、ご自愛くださいね。」
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