第八章

文字数 4,404文字

 プロジェクトの山場を越えたからか、金曜日は家でゆっくりする時間が取れた。
「滑り込みセーフだわ。」
熱々苦々緑茶をフーフーしなが、ぼそっとつぶやく。
治療についてどうするか、ゆっくり考える時間が取れたからだ。
いや、本当はもうほとんど決めている。またあんなことがあって、周りに迷惑もかけられないし、何より自分が辛い。
でもまだ時間があるから、ちょっと悩んでいたい。
この前の雑誌をパラパラとめくる。
「手術にするかあ。」
聞こえるようにつぶやくと、母が言った。
「そうねえ。この前みたいなことになってもねえ。」
真希子の手術は、雑誌に載っていた体験談と同じ子宮の全摘出になる。
「孫に会えないけど。」
「気にしなくていいわよ。」
母はそう言うと、お風呂に入ってしまった。
そうだ。私が産まない、ということは、母は孫と会えないということだ。結婚しないと決めて、母にもそう話していたけれど、実際にこういうことになると、母はどう思ったんだろうか。
隆史がいるから、ひょっとしたらなんて思っていたんじゃないだろうか。
やはり「産まない」と「産めない」の差は大きい。
自分の事だけれど、自分の考えだけで決めるのを躊躇してしまう。
「うーん。」
ほとんど決めている。決めているけれど。
 ぼんやりと考えていると、いつの間にか母がお風呂から出ていた。
「早く入っちゃって。」
「ねえ。」
せめてきちんと確認しておきたい。
「本当に孫、いい?」
母は真希子をまじまじと見つめると、
「今更孫に会えるなんて思ってないわよ。ずいぶん昔から結婚しないって言ってたんだから、当然子供も作らないんだろうと思っていたし。まあ、そう思うようになったのは私が原因なんだろうから、その点は申し訳ないと思っているけどね。」
母は真希子が小さい頃に父と離婚している。母の口から父親のグチを聞いたことはなかったが、苦労して育ててくれたことはわかっていたから、結婚しなくてもいいかと思うようになったのは本当の事だ。
でもそれだけが理由ではない。
「それにね。私は親だから、やっぱり一番心配なのは自分の子供なのよ。真希子が病気ならしっかり治療して、元気になって欲しいって、一番思う。」
そしてふっと笑うと、
「孫の前に娘。あなたには自分を一番に考えて欲しいっていうのが、親の意見よ。」
「ほう。」
そんなものなんだろうか。
「わかった。よくわかんないけど。」
 翌日、真希子は手術を受けると医師に伝えた。ついでに先日の体調不良の話もすると、医師の顔が曇る。
「そうだったんですか。大変でしたね。それ以降痛みや違和感は落ち着いていますか。」
「はい。その時だけです。」
「そうですか。うーん。」
困った顔で電子カルテとMRI画像を見比べている。
「ちょっと診ましょうか。」
今日は診察する予定ではなかったようで、看護師がバタバタしている。何度か「スミマセンね」と謝られた。
診察しながら、何かぶつぶつ言っている。
「うーん。」
納得できていない様子なので、こちらも不安になる。
診察が終わっても、さっきと同じ困り顔だった。
「今診た限り前回とあまり変化は見られないんですよね。」
「はい。」
変化がなくても具合が悪くなったのは事実だ。真希子は返事をすることしかできない。なんとなく申し訳ない気持ちになって、困らせてごめんなさいと心の中で謝る。
医師はうん、とうなずいてから、
「わかりました。手術混んでるんで、本来だと三か月くらい先になるんですが、できるだけ早く手術できるように調整しましょう。とはいえ、すぐっていうわけには、やっぱりいかないんですけどね。」
「三か月ですか。」
「緊急じゃないと、どうしてもねえ。」
早まるのがいいのか悪いのか、よくわからなかったが、真希子は「はい」とだけ言った。
「それまでにまた同じように体調悪くなることも考えられるので、お薬出しておきますね。」
 病院が終わって、ひとまず母に連絡する。
「手術、来月になったよ。」
「来月?早まってるじゃない。悪くなってるの?」
「この前の体調不良の話をしたら、早めてくれた。」
手術の予定はずっと埋まっているのだが、何とか「ねじ込んで」くれたんだそうだ。
「早いに越したことはないわ。良かったじゃない。」
「うん、そうだね。」
急遽、あちこち(といっても主に社内だが)に報告が必要である。
隆史から話があると言われたのは、その数日後の事だった。真希子も手術のことは話しておこうと思っていたので、週末隆史の部屋に行くことにした。
部屋は珍しく片付いていて、隆史の様子もなんだかかしこまった感じだ。
「どうしたの?」
向かい合って座ると、隆史は大きく息を吐いてから言った。
「別れて欲しいんだ。」
隆史が口にした言葉はなかなかパンチがあった。
「ん?」
「正直に話すよ。子供ができたんだ。」
ん?ん?私、妊娠してないけど。
なんだか次元が違いすぎて、他人事に聞こえる。
隆史は申し訳なさそうに事情を話し出した。会社の同僚と浮気して、相手が妊娠したという。
「そう。」
真希子はそう言って黙ってしまった。こうなることは可能性としてあるかもと思っていたけれど、実際に目の前で起こると言葉が見つからない。
少しの沈黙の後、隆史が言った。
「真希子の気の済むようにしてもらっていいから。殴られることも覚悟してる。」
殴る、ねえ。
さっきよりも長い沈黙が続いて、それから真希子が口を開いた。
「わかった。あー、えっと、まずは『おめでとう』。」
「え?」
「赤ちゃんができたんでしょ。おめでとうじゃない。」
真希子のリアクションは想定外だったようで、今度は隆史が口を開けたまま黙っている。
「殴られると思ってたの?」
「そりゃ。浮気したわけだから。」
真希子は苦笑すると、
「はじめに結婚しないって宣言しちゃったから困らせたよね。ごめん。」
「いや、俺もそれが良かったんだよ。でも。」
「うん?」
隆史は少しためらってから、
「子供ができたって聞いた時、俺、正直うれしかったんだ。」
「うん、そうか。」
同僚の話を思い出す。子孫を残したいという本能。真希子と同世代の隆史にとって、子供を持てるリミットも近い。隆史が焦っていたのかはわからないけれど。
「子育て大変みたいだから。頑張ってね。」
「うん。」
「じゃあ。」
「真希子。」
玄関で呼び止められて顔を上げると、
「本当に、ごめん。」
ダメ押しで謝られた。
「そこは、『ありがとう』じゃない?」
諦めの表情筋が出てしまった。
「あ。ありがとう。」
 こういう時って、わりとあっさりなんだなあ、と、隆史の部屋を思い出しながら、駅までの道をぼんやり歩く。
「よかった。」
手術の話をしたら困らせただろうから、前振りもしないでおいてよかった。もう隆史には関係のないことだ。
「なんだか、ジェットコースターだわ。」
ああ、疲れた。
 まっすぐ帰る気にはなれず、「黒猫」の店前で長めの息を吐いてから、ドアを開けた。すると、マスターが「いらっしゃい」の代わりに、
「疲れてるねえ。」
と、いつもの緩い声で言った。
「あれ、見られちゃいました?」
真希子はただ息を吐いただけのつもりだったが、マスターにはため息に見えたらしい。
ヘラッと笑って、ブレンドを注文した。
「どうも。」
変わらずカウンターの奥に座っているニイミさんにも会釈して、二つ空けてカウンターに座った。
「ふう。」
二人に気づかれないように小さく息を吐くと、すぐにマスターがコーヒーを持ってきてくれた。
「ああ、お母さん、ちょっと前に久しぶりに来てくれたよ。」
片桐のお礼を買った時だ。
「元気そうだったから、安心したよ。」
「ドリップバッグ?」
真希子が返すと、
「そうそう。お買い上げありがとうございました。」
マスターがペコっと頭を下げると、ニイミさんが続ける。
「今じゃもうお母さんしか買ってくれないんだよね。」
マスターは困った顔をして肩をすくめる。
「商品化した時は頑張ったんだけどねえ。」
苦笑するマスターを真希子はフォローした。
「お店で飲むのが一番ってことですよ。」
ははっ、とマスターは笑って、奥へと引っ込んだ。
今日のクラシックは軽やかなピアノだ。オーケストラのドン!とした重みのある音より、今日の気分にはずっといい。静かな店内に溶け込むように静かに、いや、ボーっとしていたい。
このタイミングで隆史と別れたのは、実は良かったんじゃないだろうか。真希子の人生に結婚や子育てはないけれど、隆史がどうしたいのか聞いたことはなかった。長いこと自分に付き合わせてしまって、時間を無駄にしたのかもしれない。子供ができて嬉しかった、という言葉は本心だろう。真希子は手術をすれば子供を持つことは100%なくなるわけだから、むしろ浮気相手には感謝すべきだろう。
ただ、隆史を含む多くの人の人生と真逆に進んでいるような、人生の岐路を左右に分かれて歩いていく、よくある映像がちょいちょい浮かんできて、なんだか居心地が悪い。
結婚して子供を産み、母として生きることを、ひょっとして自分も望んでいたのだろうか。
もう、わけがわからなくなってきた。
「はい、おかわり。サービスよ。」
いつもと違うと気づいたのか、マスターが持ってきてくれた。
「あ、すみません。」
マスターもニイミさんも黙ったままだ。ありがたいが、なんだか申し訳ない。
 結局「黒猫」で一時間ほどボーっと考えて、家に帰った。
「ごはん食べてこなかったの?」
いぶかしげに出迎えた母を見て、連絡するのを忘れていたことに気づく。
「うん。黒猫でコーヒー飲んだだけ。」
「隆史君のところ行ったんじゃないの?」
「うん。別れてきた。」
「はあ?」
買い置きのカップ麺ができるのを待ちながら、今日の出来事を簡単に話した。
「そう。」
母はそれしか言わなかった。
「よくわからなくなってきちゃって。今までは絶対の自信があったのよ。結婚しない、私には向いていないって。でも実は子供欲しかったのかなあ、って思ったり。」
醤油味のラーメンを啜っていると、母が言った。
「わかってるつもりでも、実は見て見ぬふりしていたんじゃない?」
「見て見ぬふり?」
「フタしてたのかもね。自分の気持ちに。」
「蓋?」
「夫婦って面倒とか子育ては大変とか。目の当たりにしてきたからね。」
「それは関係ないよ。ただ、他人と関わるのはね。家族は何となくわかるけれど、他人ってどういう考え方するかとかわからないじゃない。感情的だったり、真逆の事考えてたりすることもあるし。」
「あんたの周り、そんな人ばっかりだったの?」
「ううん、いい人たくさんいるよ。会社だって、同僚には恵まれています。でも、プライベートになるとね。」
お互い踏み込もうとすると、なんだか居心地が悪い。個人的な感情を相手に押し付けているようで。
「人との距離が微妙なのね。」
「絶妙なのよ。」
母は呆れたように言った。
「あのね、人間は感情があるから面倒くさいけれど、感情があるから愛おしいんじゃない。あなたも人間なのよ?」
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