第九章

文字数 7,085文字

 残務を片づけるのに数日かかったが、プロジェクトは無事に終了を迎えた。自分たちがこなした仕事以外にも、あちこちに枝葉が分かれていて、たくさんの人が動いていたんだと改めて実感したのは、最後の全体ミーティングを見たからだ。
「みんな本当にお疲れさま。先方から感謝の言葉をいただきました。…なんか、こういうオイシイところだけ持っていって申し訳ない。」
上司が言うと、みんなクスクス笑う。
「小山と神谷さんには申し訳ないが、完全にクローズするまで付き合ってもらうけれど、他のみんなは今日で終了です。本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。」
最敬礼のお辞儀で感謝ができる上司を見て、だから人が付いてくるんだなあと改めて思う。
「で、これね。」
何人かのメンバーが箱を持って登場する。
「え?ケーキ?」
「わーい!」
女性はみんな破顔した。
「打ち上げは後日。今日はささやかだがこれで。」
続いて飲み物も運ばれてきた。
「飲み物、いくつか種類があるから。」
上司が叫ぶと、何人かが「はあい」と返事をした。
「神谷さん、小山、ちょっと。」
横並びなので集まることもないのだが、上司の近くに寄ると、
「来週末に先方とお疲れ様会。二人とも大丈夫?」
「私は大丈夫です。」
小山が返事をする。
「私も大丈夫です。」
「良かった。ちょっといい店みたいだから、楽しみにしてて。」
上司がホッとして言うと、小山が聞いた。
「あの、私たちだけですか?」
「ん?というと?」
「頼田と渡と関本も、だいぶ貢献してくれたんですが。」
頼田は以前体調を崩したときに電話に出てくれた後輩だ。途中からメンバーに入れられて、主に小山のアシスタントのような立ち位置だったと、関本が言っていた。
「ああ、今回はあちらの社長もご同席なんだ。あまり多いとね。」
社長が来るのならお疲れ様会じゃなくて接待だ。それじゃあ私も遠慮したいんだが。
「わかりました。」
小山も理解したようだ。
「よろしく。」
上司はそう言うと席を立って、談笑している他のメンバーに声をかけにいった。
「仕事だねえ。」
諦め笑いでつぶやくと、小山も
「仕事ですねえ。」
と、同調してくれる。
「神谷さん、小山さん、お疲れ様でした。飲み物です。」
プロジェクト中に何度か話したことがあった後輩が持ってきてくれた。話が終わるのを待っていてくれたようだ。
「ああ、ごめんなさい。」
コーヒーやジュースの他に、ウーロン茶や紅茶もある。特に何も考えずにコーヒーを取る。
「お疲れさまでした。ご協力ありがとうね。」
「まだケーキ食べてないのかー?勝手にやるから適当に置いておいて、もう食べちゃえー。」
小山がおどける。
「せっかく待っていてくれたんだから、そんなこと言わないの。ごめんね。本当にもういいから、ゆっくりしてね。」
小山はそのままどこかへ行ってしまった。真希子も席を立ち、近くにいる同僚にお礼を言って回った。あまり良く覚えていない顔もあったが、作業分担を聞くと繋がっていることが多く、いかに助けてもらっていたかがわかる。
「神谷さん。」
渡と関本に声をかけられた。
「ああ、お疲れさま。ケーキは食べてる?」
「はい、もうペロリです。」
渡が笑うと、関本もうなずいた。
「本当に、二人にはとてもお世話になりました。迷惑もかけてしまったし、ごめんね。」
「とんでもないです。とっても楽しかったです。やっぱり、小山先輩を信じて正解でした。」
「初プロジェクトで戸惑ったこともあったと思うけど。」
「いえ、神谷さんと小山先輩のおかげで、困った記憶はないです。でも、本当に大変でしたよね。小山先輩もすこーし痩せたかも。」
ドッと笑いが起きている向こうの輪の中で生き生きと喋っている先輩を見やると、渡が言った。
たまたま渡と目があった小山が、手招きしている。
「おお、来て来て。」
渡が行ってしまうと、真希子は関本にもお礼を言った。
「資料のまとめ方が、本当に上手だね。何度助けられたことか。」
「いえ。僕は資料部なんで、それくらいしかできなくて。」
相変わらず、しっかりとした話し方だ。いつもは同性ということもあってか主に渡と話をしていたので、関本ときちんと話す機会は少なかった。
「資料部は普段外部と接することが少ないんです。」
「ああ、確かに。」
籠って作業しているイメージだ。
「あの。」
「うん?」
「神谷さんって、イントラ内のシステムを使ってアンケートとか申請ツールを作っているんですよね。」
「ああ、うん。簡単なものだけだけどね。」
関本君の表情が緩んだ。
「とても使いやすくて。社内で作っていると知って、びっくりしたんです。神谷さんのお名前はそれで知りました。今回プロジェクトに神谷さんがいるって聞いて、一緒に仕事ができるのを楽しみにしていたんです。」
「そうだったの。どうもありがとう。」
なぐさめられることはあるけれど、こんなに褒められたこと、しばらくないなあ。
「僕、どうして入ったのかわからなかったんですけれど、小山さんが名前を出してくれたみたいで。神谷さん一緒だよって教えてくれて。一緒に仕事ができてすごく良かったです。なんか、働くっていいですね。」
あまり表情がなかった関本が笑顔で言った。大げさだと思うが、生き方を肯定された気がしてうれしくなる。少なくとも仕事については、自分の歩んできた道は間違っていなかったんだと思えた。関本君も自信につながっているといいな。
 関本と話しながら、会議室を見渡す。みんな達成感を帯びた笑顔で談笑している。大きな仕事をチームで成功させるのは、何にも代えがたい貴重な経験。そして、今このメンバーで同じプロジェクトチームを組むことは二度とない。やったことは確実に自分の糧となり、経験を重ねて自信になっていく。
私もこうして前に進んできたのだ。自信になっているかわからないけれど、もうとっくに後進を見守る世代なのだ。
子育てって、こういう感覚なのかしら。
「そんなわけないか。」
自嘲気味に笑うと、
「何か言いました?」
関本に聞かれたので、
「ううん、なんでもない。みんないい顔しているなあと思って。」
適当にごまかした。
 翌日、このタイミングだろうと、真希子は上司に少し時間をもらった。手術の件だ。誰にどこまで話すべきか悩みどころだが、少なくとも上司には報告しなければならない。社内で一番小さな会議室には、すでに人影があった。会議室は全てガラス張りになっているが、ブラインドが引いてあるので、誰がいるのかすぐにはわからない。
「お時間いただきありがとうございます。」
「いや。」
ニッと笑った上司から、コーヒーを渡される。例のカップ式自販機のものだ。
「いただきます。」
「神谷さんと言えばコーヒーだから。それで、話って?」
片桐に言わせれば、真希子と言えば緑茶なのだが。まあ、それはいい。
真希子が手術の件を伝えると、上司の顔が曇った。
「そんなにひどかったのか。体調崩したのも、それが原因だったのかな?」
「詳しく調べていませんが、たぶんそうかと。」
「うーん。」
上司は考え込んでいる。プロジェクトが終わった直後で、タイミングが悪かったか。
「体調次第で復帰する感じでいいのかな。」
「はい。」
「わかった。しっかり治してきて。こちらの事は心配しないで。と、言いたいところなんだが、イントラシステムなあ。」
「そうですね。ほぼ私一人で作ってますから。」
それほど大掛かりでも複雑でもない。ただ面倒なだけ。細かい設定を積み上げていくものなので、黙々と集中して作業ができる人にー
「一人、打診していただきたい人がいるんですが。」

 「お疲れ様会」と称した接待は、かなり高級な料亭で行われた。先方の社長の行きつけらしい。
「この度は大変お世話になりました。」
三浦社長はスーツではなく、オフィスカジュアル。
「今日は溜まっていた事務仕事をやっつけていたので、ラフな格好でごめんなさい。」
にっこりと笑った。
会食は和やかに進んだ。固い話から柔らかい話まで満遍なく、こういう席での理想的な雰囲気だった。
「三浦社長は猫を飼われているんですか。」
上司が振ると、ビジネス顔が緩んだ。
「はい。保護猫を譲り受けまして。帰って猫の顔を見るとほっとしますね。」
「猫、かわいいですよねえ。」
.小山が言った。
「小山さん、猫派?」
「はい。実家で飼っています。子供の頃からずっと家にいるんで、それが普通になってます。」
へえ、小山猫好きなんだ。知らなかった。
「毛色で性格も違うと聞きましたが。」
上司が話を広げる。真希子も聞いたことがあったのでうなずいた。
「傾向はあるみたいだけれど。うちは人懐っこくって警戒しないって言われている茶トラなんだけれど、ノラ時代に何かあったんでしょうね。慣れるまでしばらくかかったんですよ。」
「そうなんですね。」
「でも馴れるとかわいいですね。家中毛だらけですが。」
「わかります。換毛期とかすごいですよね。」
小山が続けると、社長が笑う。
「そうなのよ。ブラッシングするともう一匹できるんじゃないかってくらい。」
真希子はびっくりした。
「そんなに抜けるんですか?」
「ええ。ブラシにもごっそりだし、部屋中にもう、舞ってるわ。」
「ふわふわと?」
「ふわふわと!」
空中に舞う抜け毛を掴むしぐさをする。意外な一面に真希子も笑ってしまった。
「ペット、飼っている方は?」
三浦社長に振られ、上司が反応した。
「うちは犬を。でも私にだけ懐いてくれなくて。」
上司が苦笑しながら言うと、
「順位を付けるっていいますものね。」
「家じゃあ一番下みたいですよ。帰るとまず吠えられます。」
上司の家庭のヒエラルキーなんて考えたこともなかったが、なかなか興味深い。
 仕事の話も緩やかに流れ、会はお開きとなった。
「猫にごはんあげないと!」
三浦社長は笑ってタクシーで帰っていった。
三島とも別れ、上司と小山と真希子の三人が残る。
「神谷さん遅くまでありがとう。体大丈夫?」
確かに、少し気分が悪い。といっても、久しぶりに飲んだアルコールのせいなのだろう。何度か経験したことのある、軽い頭痛と胃がモヤモヤする感じだ。
「はい、大丈夫です。」
「顔色良くないんだよなあ。小山、送ってやって。」
振られた小山が前に出るが、真希子は断った。
「いいえ、大丈夫ですから。小山君、いいからね。」
「そうですか?」
小山は困り顔で上司を見ると、上司も小さくうなずいた。
「わかった。くれぐれも無理しないで。」
「お気遣いありがとうございます。」
「それじゃ、お疲れ様。」
「お疲れ様でした。」
二人と別れて、真希子は駅に向かった。一歩ずつ歩くたびに、体が重くなっていく。倒れ込むほどではないが、なかなか抜けないうっすらとした気分の悪さに、すぐに電車に乗る気分にはなれなかった。こんな時には「黒猫」に寄って気分を落ち着けたいものだが、あいにく営業時間は過ぎている。
駅前にはドラッグストアとスーパー、ファストフード店があった。ファストフード店はガラス張りで店内がよく見えたのだが、遅い時間というのもあって、客も少なそうだ。
ちょっと休んでから帰ろう。
店内は明るく、でも何となくけだるい空気だった。もうすぐ閉店なのか、カウンターの後ろもバタバタしている感じはない。
「こんばんは。ご注文お決まりですか?」
何も考えずにコーヒー、と言おうとして、メニュー表に目が留まる。
「あー、紅茶ください。」
渡されたのはお湯が入ったカップとティーバッグ。いわゆるインスタントだ。コーヒーはどこも本格ドリップを提供するのが当たり前になっているのに、紅茶はずっとインスタントなのだなあと脱力した。いや、真希子が知らないだけで、これが「本格」なのか。
二階に上がって適当に席に着く。カップの蓋を取ってティーバッグを浸した。蒸らしたほうがいい気がしたので、また蓋をする。ガサガサと音がする方を見やると、店員がゴミの回収をしている。一日どれくらいのゴミが出るのだろう。ぼんやり考えていると、スマホが光った。小山からだった。
「無事に帰れていますか?こちらは二次会です。」
二人ともいける口だから、飲み直しているのだろう。小山の心中を思うと、ふっと笑いがこぼれる。
「お疲れ様です。ご心配ありがとう。大丈夫です。また明日。」
返信してからカップの蓋を開けた。と、同時にワッと茶葉の香りがのぼってきた。びっくりして、熱湯に沈んでいるティーバッグを覗き込む。上ほうはまだ透明なお湯のまま、下の方だけ茶色く色が付いている。茶葉が踊っているわけでもないのだが、それにしてもこんなに香りが豊かだったっけ?
ティーバッグを取り出して、マドラーでゆっくりとかき混ぜる。一口飲むと、香りと暖かい紅茶が喉を伝っていくのがわかる。
「ふーっ。」
やっとひとごごち着いた。もう少し休んだらなんとか帰れそうだ。
温かいっていいなあ。
真希子はカップを両手で持つと、一口、また一口と飲んだ。飲むたびに元気が戻ってくる。まるで命の水だ。あっという間に半分近く飲んで、そのころにはずいぶん気分も良くなっていた。
人がまばらな店内を見回すと、一人と目があった。え?
「神谷さん?」
目を丸くして、三島が座っていたのだ。
「どうも。」
軽く会釈をする。
「お疲れ様です。あの、そちらに移っても?」
三島が腰を浮かせる。
「ああ、どうぞ。」
荷物を寄せて、座りやすいように整えた。
「こんなところで。」
「偶然ですね。」
真希子は笑顔でそつなく答えたが、三島が食べているものを見て固まってしまった。
「あー、おかしいですよねえ。」
「いいえ、失礼しました。」
ホイップクリームがたっぷりのったフラッペである。最近出たばかりの新作だと、CMでやっていたやつだ。
「一度食べてみたくて。こんな機会なかなかないので。」
「甘党でいらっしゃるんですね。」
「はい。昔からです。今はそうでもないですが、私達世代は男が甘い物なんてって雰囲気ありましたから。でも、やっぱりおかしいですかね。」
三島の声が小さくなる。
「いいえ、うちの小山も大好きですよ。」
真希子がフォロー?する。
「小山さん、好き嫌いなさそうですものね。あ、失礼。」
真希子は笑って、
「いいえ、お察しのとおりです。」
と返した。
三島はうんうん、とうなずくと、
「会食の時神谷さん顔色が悪かったので心配していたんですよ。大丈夫そうで安心しました。」
「それは、ご心配いただいてありがとうございます。」
偶然とはいえ奇妙な状況だ。二人は何となく無言になる。
「そういえば小山さんたちは?」
「二人で二次会みたいです。」
「そうでしたか。」
なんだか会話が続かない。真希子もあまり自分から話すタイプではなし、まだあまりお互いを知らない中年の男女がファストフード店で向かい合って、気まずい空気もあった。
三島も席を移ったことを後悔しているのか、手が止まっている。
「あの、とけません?」
「え?」
真希子がフラッペを指さすと、ああ、と食べ始めた。
「こういう店にしてはそれなりに値段がするんですけれど、なかなか美味しいです。」
本当に甘い物が好きなようで、三島の顔がほころんだ。
「どんな味なんですか?」
生クリームの上にキャラメルソースがたっぷりかかっていて、かなり香りもするのだが、真希子はあえて尋ねた。
「キャラメルですね。甘いんですが、苦みもあって。食べ飽きないです。」
山盛りのホイップクリームをストローでやっつけている。真希子はしばし無言で眺めた。
「すみませんね。でも、ご一緒できて助かります。おじさんが一人でこういうもの食べてると、周りの視線が痛い気がして。まあ誰も見ていないんですがね。」
「確かに、女性といた方が気が楽かもしれませんね。」
三島はさみしそうにうなずいた。
「この時ばかりは女性に生まれたかったな、なんて思ったりしますよ。」
残り少なくなったフラッペに目が寄っている。
真希子はふと隆史を思い出した。ヤツも甘党で、店に入ると自分だけデザートを頼んでいたな。食べ終わると、お皿をシレっと真希子の方に置いてきたっけ。
「こういうのは、やっぱりね。」
目の前に置いてあると男が食べたと思われるから、なんて言っていたが男が食べたんじゃないか。
どうでもいいことを思い出しているうちに、三島は失礼、とつぶやくと、カップをあおって飲み干した。
「はあ、美味しかった。」
幸せそうな表情に、真希子は吹いてしまった。お約束の鼻に生クリームも付いている。
教えてあげると、あわててハンカチで拭った。
真希子も紅茶を一口飲んだ。保温されているわけではないので、この間にずいぶんと冷めていた。
「本当に、甘い物がお好きなんですね。」
真希子がそう言うと、三島がコホン、と咳をして、声を潜めた。
「実は、デザートの食べ放題?ああいうのにも行ってみたいんです。」
「ああ、デザートビュッフェですか。」
「そうそう!季節によってチョコレートとかイチゴとか。夏はメロン、秋は栗・芋。本当に女性はうらやましいですよ。」
「三島さん、先ほどおっしゃったように、最近は男性もめずらしくないのでは?」
「ええ。いいえ。」
どっちなんだ?
「誰も見ちゃいないと、わかってはいるんですがね。」
三島が空の容器を眺めて続けた。
「娘でもいれば、一緒に行けるんですがねえ。」
プロジェクト中に三島はバツイチだと聞いたことがあった。デリケートな部分なので、それ以上は知らないが。
真希子の気分も良くなったので、二人は帰ることにした。電車は反対方向だという。
「気を付けて。」
「ありがとうございます。失礼します。」
なんだか、やっとプロジェクトが終わったような、気の抜けた感じがした。
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