第一章

文字数 5,453文字

匂いの記憶、というのがある。
小学校の給食で出た「炒り卵」の匂いを感じて、足を止めたことがあった。ふわっと漂ってきて、そしてふわっと、当時のプラスチック製の汁椀を思い出す。にんじんとしいたけ、いんげん、卵と色どりはよかったが、メニュー自体はありふれていて人気メニューでもなかったと思う。
確かに、「炒り卵」が特別好きだった覚えはない。副菜の中でも比較的地味なメニューだったし、特別な思い出があるわけでもないのに、なんでこんなにしっかりと思い出せたのかが、不思議でならなかった。
おそらく出汁の香りだったのだろう。住宅街を漂う美味しそうな匂いが、そういえば夕食時だと教えてくれた。給食以来食べてないなあ。どこかの家で作っているに違いない、できればお相伴に預かりたいと思ったほど、記憶が強烈に甦ってきた。
 どちらかというと食いしん坊だった真希子にとって、給食は学校生活の楽しみの一つだった。3時間目の途中くらいから、給食室から漂ってくる今日の匂いにワクワクと翻弄され、男子と一緒に「拷問だよー!」なんて騒いでいた。カレーの日なんて、4時間目はあってないようなものだった。待ちに待った給食の時間は、子供でも「至福!」と思ったものだ。
温かいものも冷たいものも、きちんとその状態で出てくる。先生方と全校生徒の分を時間通り過不足なく毎日提供することはとても大変なことなのだと、大人になってからわかった。
しかも、校内の給食室でおばちゃんたちが毎日作ってくれる自校給食の他に、複数の学校分をセンターでまとめて作って配達する「センター給食」なるものがあることを知ったのも、大人になってからだ。出来立てが食べられないからぬるくなってしまいそうと思ったが、センター給食出身者に聞くと、温かいまま・冷たいままで食べられたと話していたので、そりゃ保冷技術の進歩があるか、と思い直した。
子供の頃の記憶は鮮明に思い出すものだ。特に匂いを感じると、その頃の光景までわあっと蘇ってくるのは、真希子だけなのだろうか。
そんなことをふと思ったのは、出汁の匂いがしたからではなく、キッチンからコーヒーの香りがしたからだった。
主は母である。
物心ついたとき(いや、つく前からだろう)から、我が家のキッチンはコーヒーの香りがしていた。母は無類のコーヒー好きで、一日5杯は飲む。ただ、好きだからといって、特にこだわりがあるわけではないようで、普段使いはインスタントコーヒー、ドリップはたまに飲む程度。ゴミが出るのが嫌なのだそうだ。
だからだろうか、コーヒーの香りがしてくると、幼いころに見ていたキッチン、母の背中と、その奥に緩やかに上がっている湯気の景色が思い出される。そしてその香りは、家の匂いと母の匂いとが混じっているからなのか、外で飲むものとは違って、「帰ってきた」と感じさせてくれるものだった。
「飲む?」
母は真希子に気づくと、必ずそう聞いてくる。たまに飲むこともあるが、実は専ら緑茶派だ。
「ううん、お茶飲むよ。」
急須に茶葉を入れ、電気ケトルの熱湯を注ぐ。ほぼ100度なので、急須も湯呑もすぐに熱くなる。
「あちち」
フーフーと冷ましたところで、焼け石に水。それでも、やけどしながらちびちびと飲むのが好きなのだ。
「飲み方が佐喜子おばちゃんと一緒。」
母はそう言うと、自分も「ズズッ」と音を立てながらコーヒーをすすった。
「そりゃそうよ。直伝だもん。」
佐喜子おばちゃんは母の姉で真希子の伯母に当たる。歳の離れた姉で、母よりも20歳は上だったか。もうとっくに亡くなっているのだが、生まれたときにはすでに祖母がいなかった真希子にとってはおばあちゃん代わりだった。
伯母は都心のはずれに一人で住んでいた。家は戸建てだがとても小さく、そして古かった。小さい頃は母と、少し大きくなってからは一人で伯母の様子を見に行っていた。
いわゆる「昔の人」だったこともあり、行くと必ずお茶が出てきた。ストーブの上のやかんでちんちんに沸いている湯を、威勢よく急須に入れる。湯呑に熱湯茶がなみなみ注がれると、
「はいどうぞ。」
と出してくれる。
おもてなしも何もあったものではないが、これが伯母流だった。お土産にちょっと値の張るお茶を持って行ったこともあったが、どんな茶葉でも同じ。
「もう姉さん、勿体ないじゃない!いいお茶なんだから。全部苦くなっちゃう。」
母が苦言を呈したことがあったが、伯母は、
「なんでもいいんだよ。」
と、笑ってタバコをくゆらせた。
緑茶が好きな人は知っていると思うが、沸騰したお湯で淹れると苦みが出るので、ぬるめの湯を使うのが一般的だ。ビジネスシーンでは、来客時に冷まし湯で淹れたお茶を供するのが好ましい。そうすると苦みが抑えられ、うまみが出るからだ。
緑茶に限らず、コーヒーや紅茶などの抽出温度にはそれぞれ理想の温度がある。日本茶は煎茶・抹茶・ほうじ茶など、種類によって適温が違うので、お茶本来の「おいしさ」に出会うためには、温度は気にするべきなのだが。
伯母流のお茶に慣れてきたからか、真希子はかなり苦いお茶を好むようになった。上手に淹れられた一杯はぬるいし、何より苦みが足りない。何をおいしいと思うかは個人の自由だし、好きなものを好きに飲めばいいと思っている。お茶の生産者さんには少し申し訳ないが。
「なんでもいい」
まさに伯母流だった。
「夏でもあっつあつだったよねえ。」
鮮やかな緑とは程遠い、いかにも濃い緑のお茶は、その香りも濃いとわかるものだ。
もうすっかり自分のお茶ではあるのだが、それでも時折、ほこり臭くてぼんやりとタバコのけむりが漂った、穏やかな日差しが差し込む伯母の家を思い出す。
真希子はふっと笑うと、ギリギリやけどしないくらいまで冷めたお茶を飲みほした。


冬は寒い。
そして、朝が来るのが遅い。
真希子が家を出る時間はまだ薄暗く、街灯が点いている。
マスク越しに冷気を吸い込んで、寒さに覚悟を決めると、駅までの道のりを歩きはじめる。
交差点でうっすらと明るくなっている東の空を見やる。群青色からオレンジ色に、だんだんと変化している。
夜が明ける。
ああ、自然が作り出す濃淡は、どうしてこうも違和感がないのだろう。
虹のようなグラデーションしか知らなかった真希子は、教科書にはないこの夜明けの色にショックすら受けたのだ。
「夏はこの時間じゃもう明るいもんね。」
しばらく眺めていたいところを諦めて、再び歩き出す。眠いし寒いし、早く温かいところに避難したいと思いながらも、この時間が嫌いではない。どちらかというと朝派なので、遅い時間に夜道を歩いて帰ってくるより、ずっといい。
周りは一度明けはじめると急ぎ足で明るくなってくる。駅はそれなりに混んでいて、憂鬱な空気が漂っていた。皆仕事や学校がかったるいという表情で、電車を待っている。
最寄り駅はターミナル駅ではないが、ラッシュ時にはやはり混む。ここから30分ほどで会社の最寄り駅に着くのだが、毎日大変な思いをして通勤して、本当に頑張ってるな、と、自分を慰める。まあ、もっと大変な通勤通学をしている人はたくさんいると思うので、控えめにだが。
 会社は駅から数分。直結しているので0分という触れ込みだが、当然0分では着かない。
主にデスクワーク、時々イントラの簡単なシステムを使って作業をお願いされることもある。申請やアンケートなど、それほど重要ではないがパッと対応したいものだ。
最近作成したものが確か今日リリースだったから、何件か問い合わせを想定してスケジュールを確認した。
「よし。」
「神谷さんー、おはようございます。」
後輩が菓子箱を持ってやって来た。まだ20代の、真希子から見れば最近入った若い子だ。
「これ、取引先の方からです。」
有名な洋菓子店の焼き菓子。
「ありがとう。」
真希子の部署は何かと頂き物が多く、菓子折りはたいて女性社員で分け合う。おかげで引き出しの中にはストックがだいぶ溜まっていた。もらってすぐ食べればいいのだが、有事の際の保存食のつもりで、引き出しに仕舞うのが癖になっている。
「さすがに、整理するか。」
結構な量。これが全部胃の中に入ることを考えると、ゾッとする。なんというカロリー。気軽にポイと口に入れても簡単に消費してくれるお年頃はとうに過ぎている。
いくつかカバンに入れて、それからクッキーを2つデスクに置いた。合間に消費するつもりだ。それから一つ深く息をついてから、画面に向かった。
少しすると内線が鳴った。上司からだった。
「実は、神谷さんのお力を拝借したい件があってね。」
今日そのことで来客があるという。
「昼前に来客あるんだけれど。時間大丈夫?」
営業職ではないので時間の融通はきくけれど、直前の連絡は感心しない。
「もう少し早めに言っていただけると。」
「そこは本当に申し訳ない。」
「わかりました。」
電話を切ってため息を一つついた。仕方がない。
チクリと一言言えただけでもよしとするか。
昼前に上司が来た。作業に集中していたので、いきなり現実に戻される。ああ、もうそんな時間なのか。
「PCはいらないよ。」
引き出しから名刺を出す。身なりをさっとチェックして、隣の同僚、片桐に「大丈夫?」と確認する。OKが出たので、応接室に向かった。
この時間に来客だと、ランチは遅めになりそうだ。クッキー、一枚だけでも食べておけばよかったかな。せめて、空腹でおなかが派手に鳴りませんように。
 応接室には男性が二人待っていた。一人は上司と、もう一人は真希子と同世代ぐらいに見える。
「初めまして。」
お決まりの名刺交換だが、毎回ぎこちない。実は真希子はこういう場面が得意ではない。社交辞令から始まり、話の本質に器用に辿り着くのは、それなりの対人スキルが求められる。上司が同席している場合は、その点はお任せできるので、せめて隣で軽く笑顔をつくるようにしている。真顔でいると、怒っていると何度か誤解されたことがあるからだ。
名刺には「部長 保永」「課長 三島」とあった。保永は貫禄がある感じだが、三島は若く見える。真希子より年下なんじゃないだろうか。
「すみません。もう一人田川という者が遅れていまして。実際のやり取りは田川としていただくことになると思いますが。」
三島が言うと、
「そうなんですね。お忙しいところ来ていただきまして。」
「いえ、こちらがお願いしているのに、すみません。」
そこから少し、当たり障りのない話が続く。お互い大阪支社が大阪の中心から少し外れているところにあるという話あたりで、遅れてきた田川が入ってきた。また、名刺交換からである。
少し息が荒い田川に、真希子がお水を勧めた。
「大丈夫ですか。お水どうぞ。」
「すみません!」
田川は遠慮せず、渡されたペットボトルをぐいぐいと飲んだ。一番の若手らしく、元気というか勢いがある。こちらも若い子一人入れておけばよかったのに、なんて、どうでもいいことを考えてしまった。
世間話パートが終わると、やっと本題に入る。特に難しい話ではなかったが、来客が帰ったのは一時間以上経ってからだった。
「小規模だけど、プロジェクトになりそうなんだよ。上にももう承諾は得てるんだけどね。」
見送ったエレベーターホールから戻ってくる間に、ざっくりとしたプロジェクトの内容と、その対応をお願いしたいという指示を受けた。
「午後、ちょっと時間ちょうだい。」
席に戻ると昼休みは終わっていて、同僚たちもランチから戻ってきていた。席で食事をする社員もいるので、部屋は食べものの匂いが残っている。
あー、誰かカレー食べたな。
「神谷さん、今まで打ち合わせですか?」
さっき身なりのチェックをしてくれた隣の片桐が、同情を込めて言った。彼女は数年後輩だがほぼ同世代だ。
「うん。お腹すいた。」
今日は優雅なランチタイムは諦めた。仕方がないが、簡単に食べてこよう。
「ちょっと行ってくるね。」
会社を出て、近くのカフェに入る。時間がないときに手早く食べられる軽食があって、こういう時にいつも使う店だ。お腹が空いているので、フランスパンにローストチキンと野菜がたっぷりが挟んであるボリュームのあるサンドイッチを手に取り、ブレンドを注文する。最近は考えるのも面倒なので、いつもこのメニューだ。
ランチタイムは終わっているので、席も空いていた。食べ終わってスマホを見ていると、LINE通知が来た。片桐からだ。
「お昼休み中すみません。何時ぐらいに戻りますか?」
おそらく上司に聞かれたんだろう。時計をみると会社を出て30分程経っている。いや、まだ30分しか経っていない。
仕方がないので、「もうすぐ戻ります」と返して、残りのコーヒーを飲み干した。あと30分を小さなため息とともに捨てる。
大人になると、この「諦める」という気持ちを上手にコントロールできるようになるもので、些細なことから重大なことまで、自分をなだめながら諦めてきた気がする。
あと30分。何度捨ててきただろうか。
 会社に戻り、歯磨きと化粧直しを済ませてから席に戻ると、机にメモが置いてあった。
「B会議室」
上司の字だ。
「大丈夫ですか?ほとんど休んでないじゃないですか。」
片桐が代わりに怒ってくれている。真希子は思わず笑ってしまった。会社員あるある、片桐も同じ目に何度もあっているのでよくわかってくれている。
「ありがとね。」
朝机に置いたクッキーが目に入った。食べるとしたら残業中かもしれないな。
クッキーを引き出しに戻すと、B会議室に向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み