第二章

文字数 3,805文字

 久々に雪の予報で、めったに降らないこの辺りも積もるだろうと言っていた。
「どうりで寒いわけだ。」
母がつぶやく。まだ降り始めだが、すでに植込みや車の屋根は白くなっている。
「会社お休みだっけ?」
「うん。病院で検査。」
真希子は温かいお茶をゆっくりと飲んだ。はあ、おいしい。検査の為に、朝ご飯が食べられないので、これが朝食代わりだ。
こんな天気に出勤せずに済むのはラッキーだが、大して変わらない時間に病院に行かなければならないので、結局同じようなものだ。
 数か月前に受けた婦人科健診で、要検査と言われた。はじめはなんのことだかよくわからなかったが、母に聞くと、場合によっては手術の必要があるのでは、という。体が丈夫なのが取り柄なので、手術と言われて固まった。
「でも癌は心配ないんでしょ。」
安心させようと言った母の言葉も、あまり聞こえていなかったと思う。
「でもさ、MRIって、なんだか仰々しいやつなんだよ。」
「おっきなトンネルに入るやつ?」
医療系のドラマで見たことがある。誰もいない部屋に大きな機械と取り残されて、横になったまま機械にスライドする。身動きが取れなくて、なんだか機械に取り込まれてしまいそうで、ちょっと怖い。
 悪天候でも、病院の受付には人があふれていた。病院といえばお年寄りが多いイメージだが、若い男性、赤ちゃんを連れた夫婦と、様々な世代の人々がいる。
この辺りの比較的大きな病院だから、そりゃそうだと納得し、案内された検査室へ向かった。
「これは待たされるなあ。」
そう心配していたのだが、意外に早く名前を呼ばれた。
「検査着に着替えたら、声をかけてくださいね。」
ベテラン風の看護師さんに着替えを渡される。
MRI検査は金属がNGである。ビアスやネックレスといった貴金属はもちろん、タトゥーもダメだし、ペースメーカーといった医療機器が体内にあっても、検査を受けることができない。
真希子はラメ入りのアイシャドウを付けることがあるのだが、それもダメと知って、化粧は最小限にとどめた。
「それでは、こちらに横になってくださいね。」
先ほどの看護師さんは検査技師さんだったようで、テキパキと指示してくる。
「ベルトで固定します。気分が悪くなったら、こちらを押してくださいね。」
シリコン製の呼び出しボタンを渡される。一度試してしてみるように言われて押すと、ビーッという機械音が響いた。
「そして、これ。」
技師さんは大きめのヘッドホンを持っている。
「これを付けても、相当うるさいんですけどね。」
装着している(してもらっている)間に、検査前に書いた同意書の内容を思い出した。
・大きな音は平気ですか?
ああ、そうだった。この検査はすごい音がするって話だったんだ。
「それでは、検査をはじめます。20分から25分程と少し長いですが、気分が悪くなったら無理せずボタンを押してくださいね。」
技師さんがいなくなると、程なくして寝台が動いてトンネルに入っていく。ああ、今私は機械に取り込まれているんだな、と、俯瞰で想像する。
・狭いところは苦手ではないですか?
同意書の別の質問を思い出す。10cmちょっとだろうか、顔の前に壁(というか天井だが)が迫っている閉塞感は、狭所がそれほど苦手ではない真希子でも息が詰まる。少し嫌な予感がした。
 機械が動く音がしばらく聞こえた後、轟音が鳴りだした。びっくりして固まる。これではヘッドホンも何の役にも立っていない。まるで耳元で道路工事をしているようだ。
「やばい。」
一瞬パニックになりそうだった。ボタンを押そうと右手が動く。
いや、ちょっと待って。
検査前に医者に言われたことを思い出した。
「目をつぶって、音から意識をそらすようにするといいですよ。そのまま眠ってしまう猛者も、たまにいます。」
真希子は目を閉じて、あれこれ想像した。検査の後何を食べようか、帰って母にどう話そうか。
少しすると、体がじんわりと暖かくなってきた。磁気の影響らしい。轟音は断続的に数種類あって、音が止んでいる間はホッとする。中にはおもしろい音もあったりして、何とか20分を過ごすことができた。
「はい、検査は以上です。」
意識をそらしていたからと言って、全くダメージがないわけではなかったようで、寝台から起き上がると、ふらっとよろけた。この検査中に寝ちゃう人がいるなんて、本当に相当なツワモノだ。
「大丈夫ですか?ゆっくりでいいですよ。」
そんな患者には慣れっこといった感じで、技師さんは体を支えてくれる。
「あとはお会計だけですね。おだいじに。」
検査室を出て時計を見ると、まだお昼には早かった。診察があったらもっとかかるんだろう。
病院が思ったより早く終わったので、少し大きめの駅に出る。駅ビルのショップをいくつか覗き、レストランフロアで寿司屋に入った。朝ごはん抜きだったので、お昼は豪華にいこう。
案内されたテーブル席にはタッチパネルが置いてあり、店員を呼ばなくても注文ができた。
海鮮丼を注文し、お茶を入れる。こういうところはたいてい粉かパックのお茶に熱湯を注ぐので、真希子好みの苦めのお茶だ。寿司屋と言えばこのお茶の香りだが、メニューが運ばれてくるとワサビのツンとした香りに代わる。例え目の前になくても、だ。香りの形状記憶といったところだろうか。
「でも、ネタが出てきても海の香りはしないんだよなあ。」
海辺の寿司屋で食べているならともかく、こういう場所で磯の香りは考えたこともないけれど。
出てきた海鮮丼は新鮮で、とても美味しく頂いた。
 再び駅ビルをぶらぶらして、本屋で母にお土産を買った。読みたいと言っていた本の文庫版が出ていたのだ。
「さてと。」
時計はおやつの時間を過ぎて、夕方にさしかかっていた。真希子は思い立ち、電車に乗って地元の駅まで戻った。
「しばらく来てなかったな。」
商店街のはずれにある、だいぶ年季の入った喫茶店「黒猫」。真希子は子供の頃によく母に連れられて来ていた。大人になってからもたまに訪れている。
店のドアは木製で、小さな鈴が付いているのだが、音も小さいのでドアベルの役目は果たしていない。薄暗い店内には、カウンターとテーブル席が4つ。決して広くはない。
「いらっしゃい。」
マスターが真希子に気づくと、にっこり笑った。
「こんにちは。」
「こんな日に物好きだねえ。」
思ったことをそのまま口にしてしまう、商売っ気のないおじさんだ。
「俺も物好きってこと?」
カウンター席の一番奥に座っている男が言った。ここの常連で、ニイミさんといった。真希子も何度も会っている。
「寒いですものね。」
真希子もカウンターに座ると、ブレンドを頼んだ。それから、メニューを開いて、何か甘いものでもと思ったのだが、結局何も頼まずにメニューを閉じた。
 少しして、奥からコーヒーの香りが漂ってきた。家のそれとは全然違う、深くて香ばしい本格的なコーヒーだ。
カップに注がれたコーヒーが目の前に置かれると、真希子は湯気と香りを鼻から吸い込んだ。
はあー、いい香り。
大手のカフェチェーンにも寄ることはあるが、ここのコーヒーはやっぱり違う。当たり前だが、母のインスタントとも全く別で、小さいころから慣れ親しんだもう一つの香りだった。
「ホッとしますねえ。」
「そりゃよかった。」
マスターは笑った。ニイミさんもニコニコしている。
「今日は仕事じゃないの?」
「はい、有休です。」
「うんうん。いいね。平日昼間にブラブラできるって、幸せよ。」
「ニイミさん、変わらず?」
「うん、相変わらずね。毎日ここでコーヒー飲んでる。規則正しいでしょ。」
ニイミさんが何をしているのか、知っている人はいないらしい。毎日ここに来て、一日中いる。以前より少し老けてはいるが、横顔は昔と変わらない「おじさん」だ。
カウンターの向こうでは、マスターがグラスを磨いている。吊られているペンダントライトは、暖かな光でやわらかく周囲を照らし、真希子は少し眠くなった。
「お母さん、元気?」
「え?来てないですか?この前来るように言ったんですけど。」
「そう。お母さんにも顔見せるように言ってよ。」
母は私よりご無沙汰していて、前回来た時も母に伝言を預かったのだ。
「わかりました。今度は連れてきますよ。」
マスターともニイミさんとも、それ以上特に会話を続けることはなく、のんびりとした時間が流れている。店内は静かにクラシックがかかっていて、それがまた時間の流れをゆっくりに感じさせてくれる。
今日の病院と、始まりそうなプロジェクトの事をぼんやりと考える。プロジェクト始まると、身動きが取りづらくなるんだよね。検査結果が思わしくなければ、治療と時期が重なるのか。
そうしたら、プロジェクト外されるかなあ。
それにしても、MRI検査って、もうちょっと何とかならないものか。これだけ医学や化学技術が進歩しているのに、耳元であんな轟音を聞かされないと検査ができないなんて。
毎年受けている健康診断も、検査の為に具合が悪くなりそうなことをされたりする。全く理にかなっていない気がするのは、私だけではないはずだ。
きっちり1杯、コーヒーを飲み干すと、
「また来ますね。」
と言って、店を出た。
雪はもう止んでいて、白くなっていた道もすっかり溶けて、濡れているだけだ。見上げると雲は流れ、暮れかけた空がまだらに見えている。
「今度はいつ来ようか。」
母を連れてこなければ。
帰ってすぐに話そう。
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