第六章

文字数 4,125文字

 それなりの人数が関わる仕事は、進みが遅い。短い春が終わって、新緑の猛暑、本格的な酷暑と季節が移っても、真希子はプロジェクトでうんうん唸っていた。この時期には毎年、一日くらいはリフレッシュの為に休んだりするのだが、先方の田川や三島、社内からも問い合わせや確認が続き、そう簡単に休めない雰囲気だ。
「ふーっ、あっついですねえ。」
小山は週三くらいで真希子のところに現れる。もちろん仕事の話だが、時々片桐とやいやい言ってストレスを発散しているようにも見えた。
「あんたねえ、忙しんだったらいちいち顔出さなくていいんだよ。」
片桐が言うと、
「神谷さんに用があるから来てるの。」
飄々とかわす。これが始まると、真希子にとっても一休みのタイミングだ。
「なんか寿命削って仕事してますよねえ。」
小山が肩を回すと、真希子も笑う。
「生き急いでるよね。」
「小山はともかく、神谷さん大丈夫なんですか?」
「うん、フルでは回さないようにしてる。」
フルスロットルにしてしまうと、その後が本当につらくなる。若い頃は体力で何とか持っていたが、そういう歳でもない。
「そういえば、渡さん大丈夫?」
実際にフルで回してしまった渡は、先日ダウンしたばかりだった。
「三日休んでます。明日には出られるって連絡ありました。」
「くれぐれも無理しないように伝えてね。」
疲労と睡眠不足、それとストレスは体調を簡単に崩してしまう要素だ。自分の機嫌を取ることは、忙しい毎日を乗り越えるのに必要なスキルなのだ。
そこに電話が鳴った。先方の課長、三島からだった。話は小山の専門だったので代わる。
「はい、はい、そうですねえ。ええ、そこは確認したいところです。来週あたりご都合いかがですか。」
打ち合わせになるようだ。真希子も確認事項があったのでちょうどよかった。
と、片桐の電話が鳴る。話しながら真希子をちらりと見た。
「ええ、小山が。はい、代わります。」

上司が真希子にかけてきたらしい。真希子の電話を小山が使っているので、隣にかかったようだ。
「はい。」
上司も先方に会いたいという連絡だった。
「小山君と日程調整してご連絡します。」
真希子は先に電話を切ると、一番小さな会議室を予約した。
「片桐、電話ごめんね、ありがとう。」
「いえいえ。」
小山の電話が終わる。
「上も会いたいみたい。午後に会議室取ったから少し話そう。」
「わかりました。関本に連絡しちゃいます。」
小山がPCの予約画面を見ながら、そのまま内線をかける。
「大丈夫?じゃあよろしくね。」 

片桐と中華ランチである。
「最近思うんですけど、神谷さん顔色良くないんですよね。」
「まあ、忙しいからねえ。」
片岡も渡がダウンしたことを知っている。
「ちょっと無理してないですか?」
「無理してるよ。」
真希子が笑うと、片桐は首をふった。
「いえ、単に忙しいってだけじゃない気がするんです。毎日見てますからわかります。」
とはいえ、片桐のほうも仕事が大詰めらしく、午後はいないことの方が多い。
「体のメンテナンスとか、してくださいよ。」
そこから、ストレッチやサプリの話になる。いつものことだ。
話しているうちに二人分の黒酢酢豚定食が運ばれてきた。
「わーい。疲れてるときはこれですね。」
湯気とともに立ち上る酸っぱい香り。これだけでいくらか頭がすっきりする。
「はい、これね。」
片桐が小皿の小籠包用に醤油をくれる。
真希子と同じで、片桐も食いしん坊だ。何をするにも箸を握りしめている。
「ありがとう。」
小籠包には刻み生姜が添えられている。これが、美味しい。小さい頃はこういう薬味の美味しさなんて全く理解できなかったが。それだけつまんでいると、
「生姜だけ食べると足りなくなりますよ。」
片桐にお叱りを受ける。
「はーい。」
酢豚は豚バラブロックを厚めに切って、黒酢をたっぷりとまとわせている。
「うん、間違いない。」
柔らかいお肉を噛みしめ、ご飯をほおばった。はあ、至福。
結局こういう時間に一番ストレスを手放しているんじゃないか。
「結局は『食』ですよね。」
「片桐は『呑む』もでしょ。」
「はい、間違いないです。」
そこまで酒豪ではないのだが、片桐は普通に呑めるクチだ。どちらかというと弱い真希子は、うらやましくもある。
最近、取引先からある焼酎を教えてもらったという。昔からあるわりと有名な焼酎なのだが、片桐はそれまで知らなかったらしい。
「意外と美味しかったんですよね。」
銘柄を教えてもらったが、詳しくない真希子は当然知らなかった。
「私ずっとビールとワインだったんですけど、これからは焼酎も気にしてみます。」
何の宣言かわからないが、前向きなのは良いことだ。何より、片桐がなんだかウキウキしているように見える。
「私でも飲めそうなのあったら教えてね。」
「焼酎はいけるんですか?」
「たぶんいけない。」
片桐は笑って、酢豚を一口でほおばった。

 午後の打ち合わせには上司も顔を出した。
「すまないね、急に。」
打ち合わせの事か先方に会いたいと言った事か、どちらかはわからないけれどとりあえず全員でうなずく。
「さっき小山から聞いたけれど、進捗はどう?」
小山から聞いた通りだと思ったが、個人的な感触を聞きたいのだろう。
「はい、マイナートラブルはありますが、特に大きな問題はないと認識しています。」
真希子が答えると、
「関本はどう?」
「私も神谷さんと同じ認識です。」
関本も言葉は少ないが、自信を持って答えているように見えた。
「そうか。小山の勘違いじゃないならいいんだ。」
みんな笑顔になってその場が緩んだ。小山はブスッとしている。
「でも、渡さんの事もあるから、くれぐれも無理しないで。じゃあ、確認事項の打ち合わせ?」
上司は打ち合わせもいるらしい。
何点か確認事項を挙げて纏める。小山が渡からの確認事項を付け足すと、
「とりあえずはこんなところかな。」
とはいえ、大小合わせると30近くある。改めてリストを見返して、真希子は息をついた。
「じゃ、そんなところで。」
小山がその場で先方に連絡した。作業確認と合わせて、上司も行くと話したら少し待たされた。
「あ、そうですか。承知しました。お忙しいところお時間取っていただいて。」
小山も電話に向かって頭を下げている。関本が不思議そうに見ていた。
「先方、社長もお見えになるそうです。」
電話が終わると、小山が言った。
「え?そうなの?じゃあちょっと別件も入れようかな。あ、お疲れ様。後はよろしくね。」
上司はブツブツ言いながら行ってしまった。
「社長ですか?」
関本が不安そうに言う。
「まあ、挨拶ぐらいはすると思うけど、実際は上同士で話をするだろうから気にしなくていいよ。」
小山がのんびり答えた。あまり納得していない関本の肩をたたいて、小山が続けた。
「渡もいるし、大丈夫だよ。」
「はい。」
「まあ、そのあたりは神谷さんに任せて。」
「え?私?それは、困るなあ。」
真希子が情けなく言うと、
「ね?神谷さんだってこんな感じなんだから。」
関本の表情が和む。こういうところ、本当に上手だ。
「じゃあ、渡には言っておきます。よろしくお願いします。」
 打ち合わせの日、上司は応接室、真希子たちは作業室で打ち合わせをした。主に田川と数人で話をしていたのだが、三島が遅れて入ってきた。
「すみません、社長の方にも顔を出していまして。」
いくらか疲労が見える。社長が同席していればそりゃそうなるだろう。
「お疲れ様です。」
田川が声をかける。真希子たちも挨拶しようとすると、三島は制止した。
「いえ、そのままで。打ち合わせを続けてください。」
着席して、ふーっと息をつき、ハンカチでおでこを拭う。そして、目の前にある田川のお茶を一気に飲み干した。
「あ。」
話をしている小山以外は顔を見合わせた。
「課長、それ俺のですよ。」
「え?ああ、ごめんごめん。」
小さく笑いがおこる。
一緒に仕事をしてわかってきたのだが、三島は割と天然のようだ。
「じゃあ、続けましょうか。」
小山が促し、打合せが再開した。
 天然の三島が参加してからしばらく、打合せは思ったより難航した。こちらの想定通り進まず、一つ一つに確認が入る。質問するのは三島だ。
途中でドアがノックされ上司が顔を出した。
「先行くね。」
上同士の話は終わったようだ。後ろからスーツ姿の女性が顔を出す。
「お世話になっています。よろしくお願いします。」
丁寧に頭を下げる。社長だろう。
真希子たちも席を立って頭を下げた。
それがきっかけで、ちょっと息抜きしましょうという話になった。
田川が内線をかけ、少しすると飲み物が運ばれてきた。缶コーヒーやお茶など、自販機メニューだが、煮つまっていた空気が和む。
「なんだか今日は殺伐としてしまいましたね。すみません。」
自分の質問や確認が空気を重くしていると思ったのか、三島が謝る。
「いえ、必要な作業ですよ。」
小山がフォローすると、渡が続けた。
「だいぶ形になってきていますから、実際に運用がイメージできるようになるとあちこち気になりますよね。」
「それもありますが、実はさっき社長にも進捗をいろいろと。」
頭をかく三島に、他のみんなが同情する。
「なるほど。」
何度もうなずいているのは部下の田川だ。
「先ほど初めてお顔を拝見しましたが、きりっとした方ですよね。」
小山が言葉を選ぶ。
「はい、かなり。」
田川が苦笑した。キツい、ということか。
「社長ともなれば、いろいろとあるでしょうから。」
背負っているものの大きさから、取引先との関係から、時には強気に出ないとやっていけないことは多いだろう。真希子が感じるストレスの比ではないはずだ。
「人の上に立つのは、ある種適性が必要ですからねえ。」
真希子は無意識に深く頷いていたようで、小山がびっくりした顔で見ている。
「神谷さん、同意?」
「え?ああ。」
「何かご経験が?」
三島が深刻にきいてきた。渡がちょっと笑っている。
「いいえ。先ほど社長にご挨拶して、つくづく自分には無理だなあと感じたものですから。」
「そんなことは…」
三島がフォローしてくれるが、
「お気遣いありがとうございます。」
真希子は笑って流した。
「あ、すみません。話逸れましたね。」
察してくれた小山が別の話を出して、そのまま打ち合わせに戻った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み