第五章

文字数 2,804文字

 プロジェクトは順調に始まった。真希子は小山、渡、関本とこまめに連絡を取り合って、不明点は先方に逐一確認する。会話一つ一つ、言葉の行き違いがないように、先方の同意を取り、書面に残す。手間がかかり面倒なことなのだが、これは以前やったプロジェクトで先輩から教わったことだった。
「プロジェクトははじめが肝心」
それまでの、依頼を受けてから具体的な作業にかかるまでの間に、具体的な要望を掬う機会は実はあまりない。先方のイメージもぼんやりとしているし、何も始まっていないということは、どうにでも転がっていってしまう危険もはらむ。くっきりと形が見えてきた時に「こんなつもりじゃなかった」ということは、大なり小なり発生する。その芽を摘む意味でも、相手の意向や傾向を掴むためにも、「どうしたいか」はこちらから踏み込んで聞いていくこと、小さなことでもしっかり確認することは、その後の進行にも大きくかかわる大切なことなのだ。
手間はかかるが、軌道に乗れば楽になる。やり取りしていくうちに何となくつかめてきて、より濃い提案もできるようになるし、こちらの作業も効率的になっていく。
 それからあっという間に三週間が経った。作業ややり取りのぎこちなさが徐々に解消していくのを感じていたころ、小山からメールが来た。先方の希望で、一度とすり合わせしたいとのことだった。
「頻繁にメールでやり取りしていますよねって言ったんですけど。わりとこまめなタイプですね、向こうの担当者。」
「顔を見て話をすることは大切だから。」
「われわれと同じ感覚ですね。」
午後、渡と関本にすり合わせの件を伝えると、渡は戸惑い、関本は無表情だった。
「何か困ったことある?」
真希子が言うと、二人は顔を見合わせた。
「頻繁にメールでやり取りしているので、わざわざ会わなくても。」
渡の言葉に関本もうなずく。
「関本君もそう思う?」
「はい。今のところ問題もありませんし。」
「そうか。」
真希子も人と会うのは得意ではないタイプなので、気持ちはわかる。無駄に緊張するし、疲れるし。小山とも話していたのだが、若い世代はそう感じるのが自然だろう。
「頼田も必要ないのでは?と言ってました。」
頼田はプロジェクトに入ってはいないのだが、小山と近いというだけで何かと手伝いに駆り出されている後輩らしい。
 それでも、実際に顔を合わせて打ち合わせをしてみると、後輩たちは「悪くない」といったふうだった。
「これからのメールのやり取りもやりやすくなりそうです。」
小山が決め手で入社してきた渡は予想できたが、関本も、
「こういう効果があるんですね。」
と、感心していた。
昔何かの本に書いてあった、「結局は人と人」。顔を合わせることはけしてマイナスにはならない。そういう経験ができる機会は、今時貴重なのかもしれない。
 ゆっくりスタートだったプロジェクトだったが、すり合わせが終わったころに上司がはっぱをかけてきて、いきなりギアを上げられた。雪だるま式に作業や確認が増えていき、気付けば一か月、季節は春を迎えていた。
 仕事が忙しく、真希子は手術について考えることを先延ばしにしていた。そう簡単に決められることではないし、考えるなら落ち着いて決めたい。でも、今そんな余裕はない。
答えが出ることなく、病院の日になってしまった。今日は午後有休を使って、病院に行く予定だった。
「病院終わったら連絡するね。」
朝一のコーヒーをすする母にそう告げ、真希子は家を出た。
「明るくなったなあ。」
朝日がまぶしい日向を避けたいが、日陰はまだまだ寒い。それでも日差しの明るさは無条件に前向きな気持ちにさせてくれた。
駅まで淡々と歩く。だいぶ疲れがたまっている体と頭を「運搬」しているみたいだ。
ふと、甘い香りがした。気づかなかったが近くの家の花壇から香っていた。見ると、小さなポンポンのような白い花が、翠色の所々に咲いている。
「沈丁花かあ。」
秋の金木犀と同じくらい、真希子にとっては季節の香りだった。近づいて香ってみる。漂っているさわやかな甘い香り。鼻から吸って深く息を吐いた。少しだけ心がほぐれて、真希子はふっと笑みを漏らした。幼い頃の何かの記憶と結びついている気がするのだけれど、なかなか呼び起せない。なんだっけ?ふわふわと思い出を探りながら、駅までの道を歩く。順番に思い出していると、駅に着く頃には中学を卒業していた。いつもと違う気分で電車に乗り込む。こういう癒しにしばらく気づかないくらい忙しかったから、ちょっと息抜きしたい。帰りに「黒猫」寄ろうかな。
 午前中の仕事は特に変わらず、忙しく過ぎていった。片桐にランチを誘われたが、病院の近くまで行っておきたかったので断った。
昼は病院のレストランでとった。ランチタイムは少しずれていたので、店内は落ち着いていた。実は、ちょっと気になるメニューがあったのだ。「大人様ランチ」、大人向けのお子様ランチだ。
病院内のレストランだから利用者は限られているのだが、ちょっと話題になったことがあったらしく、店の前の食品サンプルにも「テレビで紹介されました!」なんてPOPがついている。
「お待たせしました。」
オムライス、ハンバーグ、スパゲティ(パスタよりふさわしい呼び方だ)、エビフライにポテトにサラダ、そしてデザートにプリンと、ザ・お子様ランチ、といったメニューがお皿に山盛りになっている。見た目はお子様、量は大人向けだ。
「いただきます。」
デミグラスソースの香りが、より一層お子様ランチ感を出していた。エビフライやサラダにデミソースがついているのもお子様ランチらしい。エビフライについていたタルタルが、酸味が強めで真希子好みだった。なんか、今日は良い日みたいだ。
 午後の診察が始まって、程なくして呼ばれる。
「神谷さん、どうですか?」
一応の診察の後、医師に尋ねられる。
「はい、特に変わりないです。」
「そうですね。診察も、前回と特に変わったところはないですね。」
カルテに入力している。
「それで、どうするか決めましたか?」
医師は単刀直入だ。他にも患者さんはたくさんいるから、回りくどく聞いて時間を使うこともない。
「それが、まだなんです。」
仕事が忙しく、ゆっくり考えられないと、素直に話すと、
「しっかり悩んでくださいって言いましたからね。」
「すみません。」
「いいえ。そうですね、神谷さんの場合は緊急ではないので、もう少し悩んでも大丈夫です。急いで決めて後で後悔するのも嫌ですからね。」
締切が延長されて、真希子はほっとした。
「ありがとうございます。」
「とはいえ、余裕があるわけではないですから、あまりのんびりしすぎないようにしてくださいね。」
「はい。」
急がなくていいけれど、余裕もない。なかなか難しいものだ。
 会計待ちの間に母に連絡する。帰りに「黒猫」に寄ることも併せて伝えた。
「ゆっくりしてらっしゃい。」
すぐ返信があった。
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