第1話:新横浜の湿地とフェリス、セントジョセフ

文字数 1,750文字

池添家は東京市議会の議員をしていた名門で裕福で大きなお屋敷を持っていたが、戦後、落ちぶれて、その一族の池添幸夫は橫浜の郊外に千坪の荒れ地をあてがわれた。1957年、その地に居を構えた。その場所とは、今の新横浜付近。その当時、篠原町と呼ばれた。田んぼと、丘がある位で、とても豪邸を建てるという場所ではなかった。

 そこで丘と林の木を切り丘を崩した残土でその周りの湿地を埋め立てると敷地が3千坪。でも持ち主もハッキリしていないし、その時代、立て札を立てて自分の所有地と宣言すれば、使えた。近くに住むのは小作農ばかりなので自分の敷地になってしまった。

 千坪を近くの土建屋に言ってブルドーザーで平地にして整地し近くの道路まで1本の舗装道路を作った。橫浜駅、東神奈川まで車で15分、東横線の菊名まで5分の場所だった。しかし整地して家を建て電気、上下水道を設置するのに当時2千万円かかった。建坪60坪の一般の木造住宅建設も1千万円かかり計3千万円を投じ、池添幸夫の資産が700万円になった。

 池添幸夫はM物産の部長だったが家を建ててからは質素の生活を強いられた。ただ、5人乗りの車を一台持っていて、それで買い出しに行ったり、駅まで奥さんに送ってもらいM物産の渋谷支店に出勤していた。その会社の美人秘書、井上範子と1958年に結婚。その後1959年9月27日に長女、絹恵を難産の末、出産した。

 しかし、その後、範子は子供を産めない身体になった。そのため1人娘の絹恵の教育には力を入れて、地元の小学校を卒業した後、代議士の推薦でフェリス女学院中学に進み、英語、数学が得意な元気な娘に育った。近くのセントジョセフのバザーや夏祭りに出かた。そして、英語でいろんな話をして4人ずつで映画を見に行ったり、食事に行ったりしたが、個々に付き合うことはなかった。

 あくまでも英語の勉強として付き合ったような感じだ。一番の楽しみは元町のカフェに入る事だった。そこで、パフェを食べたり、美味しいケーキと紅茶、珈琲を女友達と楽しんで、しゃべっているのが、一番のストレス解消。絹恵は英語が得意でラジオで聞いたりし高校でもトップクラスの成績。上智大学英文科の合格確率も80%になった。

 その後、受験して上智大学英文科に1977年・昭和52年3月に合格。その後は、近くの中央大学、早稲田大学、東大、理科大、日大の学園祭に出かけたりしていたが当時は女学生は数人で団体行動を取っていて、なかなか彼氏を作るという訳にはいかなかった。それでも大学2年の1979年7月に2週間、米国・カリフォルニアの大学に短期留学した。

 英語の勉強とサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴを観光してきた。そうして1981年、上智大学英文科を卒業。M物産・橫浜営業所で輸出入に関連する仕事についた。その後、1981年4月9日、土曜日、今年のM物産橫浜支店に配属された新入社員5人で初めての同期会を開催しようと言うことになった。

 その時、池添絹恵がフェリス出身で関内周辺は詳しいからと幹事を頼まれた。4月9日11時半、JR関内駅に集合し中華街で食事して港の見える丘公園、外人墓地、元町を散策し、夜、素敵な店で飲もうという計画となった。メンバーは今年入社の田嶋好夫、吉川輝男、山鹿賢一と清水冴子と池添絹恵の5人。 1981年4月9日11時半に関内駅に全員到着。

 池添絹恵が先頭を歩いて橫浜スタジアムを抜けて中区役所の前を通り中華街方面に向かい加賀町警察署を通り過ぎ左折し中華街の善隣門から中華街の中心通りを山下方面へ同発本館を右折して少し行くと、昼食をとる予定の四五六菜館本店に着き店に入った。そして5人好きなメニューを頼んだ。ゆっくり昼食をとり、12時半に店出て、店の前を出て左に少し行った。

 その後、大きな道とが川見える。そこを左折して谷戸橋を渡ると元町の端に出て左折して谷戸坂を10分、登ると、海の見える丘公園入り口が見え、中に入った。この日は、薄曇りで、ちょうど良い気温で散歩には最適の気候で公園の一番海側へ行くと、港の倉庫や海の素晴らしい景色が開け、田嶋が盛んに写真を撮った。この日は、大勢のお客さんが来ていたが多くの種類のバラをカメラで田嶋が撮っていた。
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