第12話 福と家人の関係(1)

文字数 1,641文字

 私たちは、その鋭利な爪を切りたかったが、福は激しくこれを拒んだ。夜中はケージに入れる手もあったが、福を閉じ込めるのは忍びなかった。
「横向きに寝たら?」と私は家人に進言した。仰向けだから、グサリとやられるのだ。横向きならば、爪も立てられにくいだろう。だが、長年の行員生活のため(彼女は高校卒業後、ずっと三菱銀行に勤めていた)、髪型が乱れる横向きで寝る習慣がなく、「仰向けでないと眠れない」と言った。

 そして毎晩、それが運命であるように、福によって彼女は凌辱にも等しい(はりつけ)同様の状態を強いられていた。一度、福の爪がおでこに刺さったが最後、彼女がみだりに動けば、その爪に更なる力が込められ、浅い傷が、深まること必定である。最悪の場合、その箇所が文字通り「皮切り」となって、思わぬ方向へズズズと線を引く可能性がある。そのためには、福に力を込められぬよう、何もせず、じっとしているしか術がないのだった。

 その福は、彼女のおでこに爪が刺さっている間、非常に満足しているらしい。薄眼を開けて福を見た家人によれば、「じっとわたしを見つめて、じーっとしている」という。
 だが福は、それからどうするかまでは考えていない。やがて福は爪を抜こうとするが、刺さっているからうまく抜けない。そしてそのとき、爪先がぶるぶるふるえ出すという。
 この震動が、彼女の不安と緊張、つまり恐怖を、絶頂の極みに持っていく。ただでさえ何を考えているのか分からない福が、自分の爪の操縦不能に陥っている。これからどうなるのか、福にも家人にも分からない、神のみぞ知る領域に入っていく。

 そんな惨劇が起きているとも知らず、隣りの布団でのうのうと寝ている私を起こすことも、彼女にはできなかった。「助けて!」と叫んだら、福を驚かせる。猫は驚くと飛び上がる。上がったからには落ちて来る。その着地点は、彼女の顔面になるだろうからだ。
 叫ばずに私を起こそうとした場合、彼女は手か足を動かさねばならない。だが、その動きはおでこにも伝播し、敏感な福は、動いたおでこへ更なる力を爪に込めてくるだろう。

 彼女は、どうしても、何もしないでいることしかできなかった。おでこの「穴」を最小限にして切り抜けるべく、爪が自動的に、できればスムーズに、離れる瞬間を待つしかなかった。
 この、福の家人への一方的な攻撃は、数日続いたのちに、大過なく終わった。だが、福の彼女へのアタックは、その時と場所、手段を変えて続けられることになる。

 彼女がトイレに入ると、福が「♪」というふうにトトトトと小走りして行く。トイレは、玄関から小廊下を左に曲がったところにあった。
 その曲がり角のところで、福はじっと身構えるのだ。そして彼女がドアを開け、出てきた瞬間、バッ!とジャンプして、彼女の太腿に飛びつくのだった。爪が太腿に突き刺さる。「キャアーッ」と女の悲鳴が家中にこだまする…
 
 以来、家人は夏でも厚いジーパンをはき、トイレに行くようになったが、爪はその生地をも貫通し、彼女の太腿を傷つけた。
 で、彼女はトイレから出る際、まずドアを細めに、そっと開けるようになった。福の所在を確認し、それから出て行く算段だ。だが、福はいつも必ずその曲がり角にいて、我慢強く待ち続けていた。ドアが小さく開くと、福も曲がり角から首を伸ばし、まさに「のぞき見」している恰好になった。
 やだぁ、と言いながら、彼女はドアを閉める。そしてまたソロソロとドアを開ける。

 しかし、これは、福の大好きな、あの「いないいない・ばあ」遊びになってしまった。彼女には全く不本意だったが、ますます福は楽しげに待つようになった。私は惨酷にも、この様子を居間から笑って見ていた。
 このトイレをめぐる攻防は、結局、業を煮やした彼女が「ドアを思いっ切り勢いよく開けて、福をビビらせてやる」ことで、あっけなく解決したのだった。
 だが、「福、絶対何かやり返してくる。福の顔にそう書いてある」と、福をにらめつけながら、彼女は言った。
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