第2話 初夜

文字数 2,148文字

 ── 人は、なぜ犬を飼うのだろう?
 ── 安心感じゃないかな。この世で、一匹だけは、自分を必要とし、好いてくれているという安心感…
 チャーリー・ブラウンの問いに、ライナスはそう答えている。
 では、猫の場合は?

「相田君、猫飼わない?」職場の上司が聞いてきた。
「あ、飼いたいです」私が答えていた。
 上司の奥さんの連れ子の息子さん夫妻の飼っている猫に、子猫が産まれたということだった。
 
 私は、その猫に呼ばれている感じがした。実物はもちろん、写真も見ていなかった。聞いたのは、オッドアイ(片目が茶色、片目が青色)で、真っ白なメス猫、というだけだった。
「出会い系」で知り合った家人と、一緒に暮らし始めて2年目の夏でもあった。
 情熱的だった恋愛初期の高潮も、ひとしきり引いて、いささか倦怠めいた気配が漂っていた頃だったから、ふたりの間に「もうひとり」、点と点の中間に、もうひとつの点を求めていたフシもあった。

 家人は犬を欲しがったが、私は猫を飼いたかった。猫とのつきあい方を学びたかったのだ。犬も可愛いけれど、人間に、あまりに従順すぎる気がした。猫は、しっかり自我というものを持っていて、自分を第一に考え、飼い主のことにはさして重きを置かず、犬と比べてドライな関係を築けるように思えた。(また、クロは吠えなかったが、犬は吠える。近所迷惑を私は非常に恐れる小心者だった)

 私には「すぎる」傾向があって、こと人間関係においては、悩ましく考え「すぎる」癖があった。それというのも、人との関係に、重きを置きすぎるからだと考えていた。
 猫との、ほどよい距離を保った関係、犬のようにべたべたせず、おたがいに自分を第一に考え、それでも一つ屋根の下、仲良く暮らし、認め合って生きて行けるような関係……猫と一緒に暮らすことで、私は人間関係における処世術のようなものを体得したい。そんな思いが、いちばん強かったと思う。

 ジャスコの駐車場で、キャリーに入った子猫を受け取り、家に歩いて戻るまで、猫はずっと大きな声で鳴き続けた。「これから猫を飼いますよー!」と、近所中にふれまわっていたようなものだった。
 やっと家に着いて、居間に置く。家人が、「あら可愛い!」と微笑んだ。
 猫は、「ここはどこか」というふうに、扉から少しだけ顔を出し、匂いを嗅いだり、天井を見たりしていた。

〈新しい飼い主と部屋に慣れるまで、猫はそっとしておくのが鉄則です〉
「猫の飼い方入門」にそう書いてあったので、私と家人は、猫のことがとても気になりながら、ぎこちなく気にしないふりを続けた。
 猫はキャリーから出ようとせず、水もご飯も口にしなかった。相変わらず不審げに周囲を見回し、体を舐め、離れた場所に座る私たちををじっと見つめたりしていた。そして伏せの恰好をしたまま、目をつむってウトウトし始めると、前足の間に鼻をおとして寝てしまった。

 私たちはそれぞれ風呂に入り、緊張を続けながらそれぞれの布団に入った。寝室は、猫のいる居間と続き間になっている和室だった。
 ベランダの掃き出し窓から、月の光が、カーテンの隙間から入ってくる。居間の猫のことが気になっていると、月の光も気になってくる。お月さんが、じっと、こっちを覗き見している…

 不意に、「ニャアニャア」と大きな声がして、その声がゆっくり移動している。
「出て来た!」私は隣りの布団にいる家人に、小声で叫んだ。彼女はパッチリ眼を見開き、こくりとうなずき、「でも声が大きい…」小声で言った。もう夜の11時も過ぎている。うん、大きいなあ、と私も言った。
 と、突然、風呂場のほうから、うんご~、うんご~と声が響いてきた。風呂場の洗濯機の手前に、猫用トイレを置いている。
 そして便臭が漂ってきた。私は、絶望的な気分になった。家人は呆然と口をあけた。
 それからニャアニャア言う声は移動を始め、我々の寝室に入って来た。

 猫に買った物で、一番高価だった「キャットタワー」が壁際にあった。幅は大人の肩幅ほどだが、高さは天井まで到達している、猫のジャングルジムのようなものだ。
 このタワーに登る音が聞こえると、並んでいる2棹のタンスの上へ乗った音がした。

 カーテンから透けてくる月の光に照らされて、私と家人は、そのとき初めて猫の全身を見た。ピーンと立った、長い尻尾。横に長い胴体。それは真っ白な手つかずの雪のようで、何か神々しく、神秘的に輝いていた。
 ニャアニャア鳴き続けながら、猫は移動を続けている。
(ああ、まあ、慣れてくれたんだ)と思おうとしたが、やたらに声が大きい。いくら一軒家といえども、近隣近所にも響きそうで、私は一瞬猫を飼ったことを後悔した。ご近所に、迷惑だけは掛けたくない。

 だが、猫に刺激を与えないよう、身動き一つせず、布団の上に固まり続けていると、猫がタンスの上からカーテンレールの上へ飛び移ったのが見えた。そしてその細いレールの上を、ニャアニャア言いながら歩き始めた。
 落ちやしないかハラハラしたが、レールの先端まで進むと、器用に身体をくねらせてUターンし、そして来た道を戻り、タンスへ飛び下り、キャットタワーを飛び下りて、再び居間へ戻って行った。
 この間、ずっと猫は、怒号のような大きな声で鳴き続けていた。
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