第16話 朝

文字数 2,084文字

 福は、ずっと変わらなかった。11年、福はずっと福のままだった。
 私は福を甘やかし続け、家人は福と一定の距離、お互いのテリトリィを明確に守りながら、一緒に暮らしていた。
 お別れは、突然、ほんとうに突然やってきた。
 その日、私は有給休暇をとっていた。福は、パソコンに向かってヤフーニュースを見ている私の後ろで、椅子に丸くなって寝ていた。
 不意に福は、ドスンと飛び降りると、テーブルの下へ這って行った。クモでも見つけたのかなと思い、私はまたパソコンへ向いた。だが、その挙動がおかしいのが、視界に入ってきた。ぎこちなく、腹這いになって、掃き出し窓の方へ向かっている。その動作が、固かった。

「福?」テーブルの下にかがみ込んで、私が呼ぶと、福は私の方へ戻ってこようとした。だが、途中で、にゃああと苦しそうな声をあげ、動かなくなってしまった。
「福、福」
 福は眼を開けたまま、動かない。私は咄嗟に、「あの世に行きそうな者は、名前を呼ぶと帰って来る」と、どこかで聞いた話を思い出した。
 福の耳に向かって、私は福!福! と呼んだ。
 だが、動かない。名前じゃダメかと思い、福の大好きな「ご飯!ご飯!」と耳元に叫んだ。が、動かない。私は、ひざまずいて福を抱っこした。私の腕から、福は力なく頭をたれた。

「福、おい、ちょっと、おい、これはないだろう、おい…」
 私は、これは一種の冗談だと思った。何もなかったように、また福が動きだすんじゃないかと思った。だが、いつまで経っても福は動かなかった。
 私は、福を膝の上に抱きながら、頭を撫で身体を撫で、開いたままだった眼をゆっくり閉じさせた。

 それから、福が大好きだった庭が、よく見えるように、掃き出し窓のそばに座椅子を置き、福を置いた。今朝、いつも新しい水に取り替えているのに、それをしなかったことを思い出し、悔やんだ。
 私は、うろうろした。何をしていたらいいのか、今、自分が何をするべきなのか、全く分からなかった。
 インターネットで、「猫の葬儀費用」や「近隣のペット霊園」を調べる。だがそれも、今するべきことではないように思えた。家人に知らせたかったが、彼女は今友達と会っている。せっかくの楽しい時間に、こんな知らせをするのは躊躇われた。
「福」の名の由来となった「吉」の飼い主、十年来の友にメールをした。
 すぐに返信がきた── 「福ちゃん、亡くなりましたか。でも福ちゃん、飼い主孝行だね。そんな苦しまないで亡くなるなんて、奇跡だよ。うちの吉は白血病だったから、ずっと苦しんでいる姿を見るのはつらかった。これから淋しくなると思うけど、福ちゃんと一緒に過ごせた日々を、感謝しましょう。相田君、連絡ありがとう。」

 読んでいたら、福が死んだことを、初めて私は知ったようだった。涙が止めどもなく溢れてきて、止まらなくなった。
 福がノラに咬まれた時(庭で、何回かあった)、その都度診てもらった獣医に電話した。もう、定期的に送られてくる「院内だより」も要らなくなったからだ。
「えっ、亡くなっちゃったの!?」と驚かれた。事情を話すと、「それは人間でいえば、脳梗塞か心臓発作というところでしょうか…」と言った。
「でも、ご家族の方が看取られたんでしょう?」
「はい、ぼくが見ていました」そう答えたら、また涙が溢れてきた。
「ああ、それは… ご冥福をお祈りします、ご連絡ありがとうございました」

 それから、やっと家人にメールをした。もう夕方近くになっていた。そろそろ帰ってくる頃だった。私は詳しく、福の最後の様子を携帯電話に打った。
「冗談じゃないよね?」と返信がきた。そうだ、今朝、福はまったく、いつものようにここにいて、出掛ける彼女を、私と一緒に玄関で見送っていたのだ。

 座椅子に横たわっている福を見ると、お尻から透明な液体が、ひとしずく垂れかかっていたので、それを拭いた。また、ウェットティッシュで、少しだけ付いていた目ヤニも取った。
 お皿に、新しいご飯と、新しい水を入れ、福の前に置いた。
 ありがとうね、福。今までありがとうね。また遊ぼうね。また会おうね。また一緒に遊ぼうね。
 繰り返し繰り返し、私は福に言った。

 家人が帰って来た。
 福を見て、「寝てるみたい…」と言いながら、鼻水をすすった。そして、その動かない頭を撫でた。
 翌朝、私は庭にスコップで、1メートルほどの穴を掘った。
 福を、座椅子からダンボールに移す。このダンボールは、家人が作った手製のもので、福はこの箱に入るのが大好きだった。
 穴の近くへ、抱えて持って行くと、また泣けてきた。家人が、また鼻水をすすった。私は穴に入り、彼女から福──福であったところのもの──を受け取った。それから穴を出て、一緒に土を被せた。
 私が泣き止むと、今度は彼女が、ぼろぼろぼろぼろ、堰を切ったように泣き出した。
 私は、少し意外な気がしながら、彼女を見つめた。

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 ハッピーエンドには遠い、悲しい最後を書くことになったが、11年、一緒に暮らしたことを、忘れぬために記した。

(2012. 11. 25.)
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