第3話 翌日から

文字数 1,889文字

 そして猫は鳴き続けていた。
 堪らず、私は布団から飛び起きた。「もしもし、シーッ、シーッ!」人差し指を口に立てて居間に行くと、猫は素早くテレビの上に飛び乗り、後ろに隠れた。
 上から覗き込むと、猫はこっちを見上げて、フーッと怒っている。左右の眼が、暗闇にギラギラ、不気味に光っていた。
 噛まれるか、と覚悟しながら、私は思い切ってテレビの上から両腕を差し込み、猫の前足の付け根を両手でつかんで抱え上げた。そして眼の前に猫の顔を持って来て、思い切り睨みつけて、「フー、じゃないでしょ!」小声で厳しく叱りつけた。すると猫は、ニャ、と言って、すいましぇん、とでも言うように横を向いてうつむいた。

 翌日、仕事から帰って来ると、「ずっと出て来ないんだよ、この暑いのに…」家人が言う。
 寝室を見に行くと、猫はタンスと壁の間にある、小さな隙間の中にいた。私を見ると奥の方へ後ずさってしまった。
「ずっとこんな調子なのよ…」途方に暮れたように彼女が言う。水もご飯も口にせず、昨日から既に24時間以上経っている。
「いかんな、なんとかしよう」私は、買っておいた猫じゃらしを、隙間の入り口でチラチラ動かしてみせた。
 反応してるかな、とチラッと覗く。覗くと、猫はハッ!と私を見上げた。私が顔を引っ込め、また猫じゃらしをサワサワ動かす。
 またチラッと覗く。猫は、またハッと私を見た。

 この「覗いて、引っ込んで」を繰り返しているうちに、私は「いないいない・ばあ」と言うようになった。相手は猫なのだから、何も変な顔をつくって「ばあ」までする必要はないのに、どうしてか変な顔をつくってやってしまう。横で見ていた彼女が、腹を抱え、涙を流しながら笑い出した。
 私は汗を垂らして「いないいない・ばあ」と猫じゃらしサワサワ運動を繰り返し続けた。
 すると、いきなり猫が顔を出した。そして何もなかったようにダイニングキッチンの方へ歩き、お皿の水をペチャペチャ飲み、キャットフードをカリカリ食べた。
 それからお座りし、前足で丁寧に顔を洗い、こっちを向いて座り直すと、落ち着いた顔で私たちをじっと見つめた。

「ああ、よかった…」私たちは安堵の溜息をついた。
「名前、考えたんだけど、フクってどう?」家人が言った。私の、遠方にいる十年来の友人が「吉」(きち)という名の猫を飼っている。「めでたい繋がりで」という理由だった。

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 めでたい福は、可愛かった。何がどう可愛いのか、説明は難しい。ただ、真っ直ぐな性格で、まじめで、正直者であるという感じがした。素直。そのまま。一心。
 じっと見つめられると、どうしても微笑んでしまう。福がいてくれると、それだけで気持ちが柔らんだ。

 だが、福と暮らして、最後まで悩まされたのは、毎晩うしみつどきになると、どうしたわけか部屋の中を徘徊し、ニャアニャア鳴き出す「夜鳴き」だった。叱っても、数分おとなしくなるだけで、すぐまた鳴き出した。どうも「人間が寝ている」状況が、気に食わぬらしかった。
 私が起きて、仕方なくダイニングに行き、パソコンの前に座って文を打ち始めると、福は居間のソファーの上で安心したように眠り始める。で、私もまた寝床に行き、しばらく寝るが、また福に起こされ…を何回か繰り返すうちに朝になる。
 家人と私は、極度の寝不足に陥っていった。

 昼間の福は、フローリングの床の上に仰向けになり、股をおっぴろげ、両腕を宙に浮かせ、「バンザイ」の恰好で寝ているばかりだった。
 こんな惰眠ばかり貪っているから、夜、寝ないのだ── 私たちはそう断定し、昼間、専業主婦である家人が福を寝かせないようにした。すなわち、福が寝る体勢に入ったらオモチャを取り出し、福の気を引いて遊ばせるのだ。

 だが、そのために買ったオモチャのぜんぶを、福は気に入らなかった。猫のオモチャには、たいてい鈴が付いている。福は、この鈴の音が大嫌いだった。鈴が鳴ると、飛んで逃げて行ってしまった。
 ゼンマイで走る小さなネズミは、一度チョイチョイしたきりで、二度と振り向きもしなかった。長い針金の先端に鳥のオモチャが付いているやつには、猫パンチを4、5発くらわせただけで、もう無関心を決め込んだ。

 私たちは、昼をあきらめ、夜、福がよく眠れるよう、猫ベッドを高価なものに変えてみた。これは「母猫に抱かれるような寝心地!」というフレコミのもので、5千円もする超高級ベッドだった。慣れるように、福の通り道にずっと置いておいた。だが福は、「なんだ、こんなもん」とばかりに憎々しげにそれを見やり、わざわざ避けて歩くのだった。
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