第9話 福の豹変

文字数 960文字

 肥満とほぼ同時期に、福に変化が見えたのは、その言動だった。「ニャア」という軽やかで可愛かった声が、ドスの効いた、やくざのような野太い声に変わって、鳴きながらの深夜の徘徊も、前より一層激しくなった。

 そばに行くと、切羽詰まった目でギロリと睨みつけてくる。昼間は何の悩みもない顔で、くぅくぅ寝ているだけなのに、夜になると人が変わったように落ち着きをなくし、そわそわし出すのだった。
 タコ糸にも、「自分の要求は別のところにある」とでもいうふうに、全然興味を示さない。撫でようとすると、「何をする!」と言わんばかりに、本気でガブリと噛みついてきた。

「どうしたの、福…」私は途方に暮れた。
 だが、福自身、自分の昂ぶる気持ちを持て余し、どうしていいか分からない、といった様子だった。しきりにお腹を舐め、いそいそと毛づくろいをして、気持ちを鎮めようとしている。
「猫の飼い方入門」を改めて読み返すと、福のこの行動パターンに似た箇所があった。
 そのページは、「発情期に入ったら」というタイトルだった。

 これは悩ましい問題だった。私は、本能を忘れないで育って欲しいという「教育方針」だった。もし病気になっても、できれば病院に行かせずに、自然に任せる方向で、と考えていた。そういう自然治癒力は、生きとし生けるものに、生来備わっているはずのものだろう。そして本能の一環である性欲は、その生命力の根源を担う、かけがえのない源のように思われた。

 人間に飼われた時点で、もう自然ではないことは分かっている。しかし、この人間主体の不自然な社会の中にあっても、野生の本能、飼い慣らされても忘れてはならない、猫としての大切な何か、本能的なものを、私は福から奪いたくなかった。
 だが、去勢手術を施さないと、「近隣に迷惑な、猫独特のけたたましい声で鳴き始める」と入門書に書かれてあった。また、家の柱やソファーなどに、とんでもなく臭い「スプレイ」というマーキング行為を始めるという。

 それより何より、福が大変そうだった。どうしてこんな気持ちになるのか、福自身にも、わからないのだ。わからない自分に、わけもわからず苦しめられることは、本人がいちばんつらいに違いない。
 動物病院は、歩いて10分ほどのところにある。私は電話をして事情を話し、去勢手術の予約をとった。
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