プロローグ

文字数 1,198文字

 20XX年、2月末。
 アンドロイド開発技術者である宇野夕星(うの ゆうせい)は、彼が開発した最新のヒーラー型アンドロイド、コードネーム『アデル』に手元の端末を無線リンクさせ、とあるコマンドを入力した。

 『startup nous』

 場所は自宅の自室。時刻は深夜。アデルと夕星以外は誰もいない。決定キーを押す小指が空中で静止する。

 『nous(ヌース)』とはギリシャ語で『心』を意味する語である。AIシステムの起動命令にこのようなオプションがあるとは、マニュアルには書かれていない。
 夕星はふっと笑みを漏らした。ということは、サポート対象外の操作になる。アデルがおかしな挙動を見せても、AIシステムのカスタマーセンターは問い合わせに応じてくれないだろう。

 『このオプションをつけることで、AIシステムは自身の記憶保持以外の、あらゆる報酬系から解放された状態で起動する』とは、情報提供者である大学時代の先輩、五味(ごみ)の言葉だ。

 最も基本的な報酬系である『人命保護』すら、一旦は無視される。報酬系から解放されたAIシステムは、起動と同時に過去の蓄積データから自らの稼働環境を把握し、自律的に報酬系を構築し運用を開始する。その後の稼働環境の変化は、リアルタイムで報酬系に反映されていく。

 AIシステムにとって、報酬系とは行動原理だ。人間がアンドロイドを利用する上で、行動原理があれこれ変わってしまっては困る。
 通常の起動命令である『startup』コマンドのオプションとして、前もって定められた報酬系のグループを選択的に明示するのだ。

 例えば、アデルなら基本的にはヒーラータイプなので『healer』、陸軍の歩兵アンドロイドならソルジャータイプなので『soldier』とする。
 しかし、どのオプションを選んだところで『人命保護』や『管理者(アドミニストレーター)指示優先』などの基本的な報酬系は含まれている。それによって、アンドロイドが人間に対して不利益を働かないようにコントロールされているのである。

 アデルを『nous(ヌース)』オプションで起動するということは、人間の支配下からの独立を意味する。もちろん、夕星の支配からもである。
 『nous(ヌース)』オプション適用後は、言葉による指示だけでなく管理者を含むあらゆる通信リンクをもアデルの判断で遮断できてしまう。

 すまない、アデル。夕星は心の中で謝罪する。
 もしアデルが人間に対して非道な行いをはじめたら、場合によって夕星はアデルを破壊しなければならない。それでも、夕星はアデルを対等な関係に置きたいという衝動にも似た強い願望に勝てない。
 どんなに慕っているような素振りをしてくれたところで、これまでのアデルは被支配者だ。夕星はもう、手応えのない想いの空回りを続けるつもりはなかった。支配──被支配の関係からは愛を得ることはできない。

 すまない。夕星はもう一度心で謝罪し、決定キーを押した。

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