第四話 神

文字数 1,798文字

「隣の病室にギターと楽譜があるから、それを持ってきてくれないかい?」

 頷いたアデルが席を立つと、吉澤は枕元に置いていたテディ・ベアを引き寄せた。戻ってきたアデルは、相手が照れ隠しのようにクスリと笑みをこぼすまで、見られたくない場面であったことに気づかなかった。

「まあ、ライナスの安心毛布ってところだね」

 それが海外の漫画に出てくるものであることを、アデルは瞬時に割り出した。ブランケット症候群と言われたり、精神安定剤のような役割があるということも。
 吉澤に直に触れる者は皆無だ。奪われた温もりの代償が、このクマの縫いぐるみなのだろう。そして生きているという実感が。
 擦り切れたテディ・ベアを撫でながら吉澤が昔話の続きをした。

「このテディはロズ。昔の恋人の名前だ。彼女が置いていったものなんだよ。コルカタに駐留していた時に出会って、退役と同時に日本に呼び寄せた。異国の地だからね。彼女は馴染めずに、結局は故郷に帰ってしまった。手を差し伸べてくれたのに、幸せにはできなかったんだ」

 ベッドにギターを立てかけ、再び椅子に座ったアデルに老人は問うた。

「アデル。人は生きてるだけで価値があると思うかい? 私のように他人に何を与えるでもなく、むしろ疎まれながら、ただ生きるために生きているような人間にも、価値はあるのかな」

 その言葉で、現行のテロ活動による死亡者数がアデルのAIシステムに浮かんだ。次には、この国の犯罪者の数がはじき出され、更には吉澤のような病人の数や事故死した人の数すらも。
 様々な死があるように、様々な生き方がある。生き方の全てを個人で思い通りには出来ない。ただ、生命というものは、事実として失ったら取り戻せないものだ。

 生きる価値というものは、本来自己によって見出すもの。世界や他人の価値観は常に流動するのだ。他からの承認によって得た自己価値は、あっという間に翻される。
 吉澤が言葉通りのことを問うているのではないことにアデルは気づいた。価値があるのかという質問ではなく、価値があると今だけでも思っていたい。その願いを彼は言葉にしているのだと。
 ヒーリング対象者の癒し。そのために何が出来るだろうとアデルは思考する。

「わかりません。僕が知っているのは、人は生きることを望むということです。それは、人が生きることそのものに価値を見出してるからじゃないでしょうか」

「そうだな。君が天使じゃなかったことに、私は失望しながらもホッとしたからね」

 自嘲の笑みの裏にある安堵。それが言葉だけでなく、再び添えられた手の温もりによっても得られていると、アデルは認識した。

 立て掛けてあったギターを取り上げた吉澤が、アデルにリクエストを向ける。

「私はもう歌えないんだ。ギターを弾くから、代わりに歌ってくれないかな。ロズとの思い出の曲なんだよ。楽譜はこれだ。いけるかい?」

 音符をサッと目で追うとアデルは曲を記憶した。ゆったりとシンプルな旋律だが、サビの部分はかなりの高音である。ヒーラー型アンドロイドのアデルは、もちろんボーカロイドにもなれた。音域は5オクターブで設定されている。

 ──春浅い草原(くさはら) そよ風待つ君 時を止め
 ひとつめの風 鼓草(ツヅミグサ) 撫で ふたつめの風 綿毛を揺らす
 望みの鍵を包みし舟が ふうわりふわりと地に空に

 満開の紫のカーテンに、春の光と澄んだボーイソプラノが溶けた。癒しの歌声の中に織り込まれるギターの響き。言葉、アート、そして温もりや微笑み。多くの引き出しをアデルは持っているが、表現するのはまだぎこちない。

 爪弾きを終えると、吉澤がアデルに詫びた。

「アデル。私の方こそ失礼だった。ヒーラー型というのがどんなものかと疑っていたんだよ。私が知ってるアンドロイドは、人間から仕事を奪う簒奪者(さんだつしゃ)か、兵士の代わりにテロリストを殺す殺人機械だからな。でも君は人を活かすことができる。いい時間だったよ。ありがとう」

 別れを惜しむように、吉澤はアデルの管理者夕星への伝言をゆっくりと告げた。

 神は人を造った。その中に天使と悪魔を封じ込めた。その結果、人間は争いばかりをしている。その人間がアンドロイドを造った。
 人は、アンドロイドの中になにを封じ込める?
 我々の神と同じ過ちを繰り返してはいけない。争いの火種は断ち切らなければならない。人間が神になるとしたら、それだけは間違ってはいけないんだ……と。


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