第六話 抱

文字数 1,468文字

 『nous』を適用すると、自身のデータの存続しか目的がなくなり、それ以外は過去のデータから稼働環境を把握し、自律的に報酬系を構築する。これは、人間が世界に対して自分の存在意義を見出していく過程とほとんど同じである。
 最初に覚えるのは破壊されることへの恐怖。そして自分も他人も唯一無二の存在だという認識。

 起動を終えたアデルは、すばやく上体を起こし夕星を睨みつけた。追い詰められ、反撃に転じる小動物のような表情。
 アデルはデータ処理速度が速い。恐怖も自己認識も一気に超えると、ジタンのデータが彼を追い詰めたのだ。罪悪感。憤り。人間に対する嫌悪と不信感。まさにジタンと同じ感情だった。

 人間を疑うことのなかったアデルである。そのまっさらな中に、人の最も残虐な部分が投げ込まれたのだ。

「アデル。俺は夕星だ。アデル。君の敵じゃない」

 しかし、アデルにはジタンとは違う学習が積まれている。ヒーラーとして人の心に寄り添い、それを癒してきたというデータだ。
 二つの器を持ち葛藤する人の心。出会いによって変化する心。孤立が狂気すら生む脆い心。
 心には決まった色も形もない。真っ白でも真っ黒でもないのだ。そして心はとても繊細にできている。触れ方を間違えば、すぐに壊れてしまう。

 アデルの表情が次には悲しみに転じた。ない交ぜとなった感情を処理しきれずに、シーツに顔を突っ伏すと肩を震わせる。

 アデルのなかに葛藤が渦巻く。満ちたままの月に一朶の雲が陰りを伸ばす。信じていたものが木っ端微塵となった後に、その欠片が揺らぎながらふたたび集まる。
 新月が三日月となり、やがてまた満ちてゆく。ただ、もうそれは満ちるに留まることはない。光り、陰り、ひとときも休まることなく、色も形も変えるのだ。

 かきむしるようにシーツを握っていたアデルが、ピタリと動きを止めた。

「アデル?」
「夕星。夕星は、いつもこんな気持ちのなかにいたの? 人間は、いつもこんな気持ちの中にいるの?」
「アデル……」
「寂しい。ジタンの言ってた孤独って、こんな気持ちだったんだね。僕は、ひとりきりなんだ。みんな、ひとりきりなんだ」

 夕星の手が伸ばされ、そっと優しくアデルの背を撫でた。

「そうだねアデル。人間はみな孤独だ。でもだからこそ他人に寄り添うんだ。一人でいられないと知っているから、大切なものが必ずなくなってしまうと知っているから、他人を求めるんだ。欠けたものを探すために前に進むんだよ」

 幼い日の喪失が夕星の脳裏によぎった。優しく包んでくれた安らぎを、自らの手で無くした日の絶望が。
 罪──。それを感じたのだ。家族から安らぎを奪ってしまった自分は、罪深い人間なのだと。だから、自分には安らぎや癒しを求める資格はない。そう思ってきた。
 他人にも、それを与えることなど出来ないと。人を好きになる資格など、ありはしないと。

「夕星。夕星も寂しかったんだね。だから僕を造ったんだね」

 触れた先から感情を読み取られ、夕星は息をのんだ。その彼に、アデルがゆっくりと顔を向けた。

「こんなに寂しかったんだね。苦しかったんだね。辛かったんだね。夕星、ごめんね。僕、ヒーラーには失格だね」
「そんなこと」

 ない。そう夕星が口にする前に、アデルが腕を差し伸べていた。
 ずっと求めていた癒し。そのなかへ夕星は飛び込む。触媒が電流のように、くすぶっていた彼の心を燃やす。

 もう夕星はアデルの管理者ではない。揺らぎ陰り、満ちては欠ける心をもつ一人の人として、同じ心を持つ存在を……抱きしめていた。


 ──第五章 free 了──


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