第三話 月

文字数 2,186文字

 ──今宵の影はくっきりといつまでもつきまとい、地に生きるものに呪縛と祝福を与える。なんじ。そこに留まりて、そこに生きよ。己を取り巻くことごとが、いかように変われども。
 月明かりは白く冷たく、変わることなく見つめ続ける。なんじのしかばねが葬られた後も。

 ◇

 孤立。老い。死への恐怖。数河はアデルに羨望と嫉妬を覚えていた。
 手に出来ないものなどほとんどなかった数河だが、精神的な拠り所はひとつしかなかった。数年前に亡くなった彼の妻である。
 抑うつ的思考は進んでいた。視野は狭窄し、絶望は極論に変化する。ずいぶん以前から数河は自死を考えていたのだ。それも、特別な生贄との死を。

 アデルには死……破壊に対する恐怖すらない。アデルにとって壊れるということは確定された未来の事象に過ぎず、特別視するようなものではないからだ。検証データは全て回収され、次の機体に引き継がれていく。そこに死などない。

 数河の手には、ずっしりと重いハンマーが握られていた。

「アデル。君は欠陥品だ。死の恐怖を知らずに人が癒せるものか。人間の時間は限られてる。だから選ばないといけない。選ぶということは他を捨てることだ。それができるか?」

 数河の言葉は、嫉妬からくる八つ当たりにも受け取れた。だが、ヒーラー型アンドロイドに足りないものを、的確に言い当ててもいたのだ。

 今のアデルは、なにも不足していない。だから、選ばないし選べない。その時々のヒーリング対象者への最良の選択しかしない。
 欠けているからこそ、人は満たすために癒すのだ。不足を覚える心を持つからこそ、他への愛情を向けられる。

 完全に満たされた器には、もうなにも足すことができない。ましてや満たされているものを、わざわざこぼす意味もない。
 自分の意志で選べないアンドロイドは欠陥品だ。葛藤のないアンドロイド。恐怖を知らないアンドロイド。自我のない機械。
 欠けることを知らないアデルには、いずれ必ず死を迎える人間の心に寄り添うことができない。

 だが、数河の言葉を聴いたアデルは、本来なら決して行わない『選択』をした。通信を切り、検証データの記録も止めたのだ。それを示すスキンの下の薄青い光が途絶えたことは、数河にも見て取れた。

「今の数河さんの発言が、僕の後継機に活かされます。だから、ここから先の僕は、あなただけのものです。それがあなたを癒すことになりますか?」

「癒す?」

「死後の世界が存在するかは分かりません。だから、自死を選ぶことの是非も判断できない。ただもし自死を選ぶとしても、希望を持ってそれを行うことができるなら、僕はあなただけのものとして壊れても構いません」

 ──検証は中途半端になってしまう。だが、ヒーリングの失敗こそ管理者にとって最も避けるべきことである。だから、ヒーリング対象者の意志を優先して構わない。

 この時、アデルの中では、管理者の指示には背いていないことになっていた。
 夕星が『アデルという個体』に執着しているという点が、含まれていないからである。自分は替えのきく存在というのが、アデルのもつ認識だった。

 葛藤の末での選択ではない。死への恐怖などないアンドロイドが、ヒーリング対象者の意志を尊重しただけのことである。だが、管理者よりも自分を優先して破壊を受け入れるというアデルの選択に、数河は目を見張った。

「壊れても構わないだと?」
「ええ。僕の存在が今のあなたに希望を与えるなら、それ以前のことも後のことも、どうでもいいことです」

 葛藤のないアンドロイドに葛藤を向けられたのは、人間のほうだった。
 通信を切り、自分だけに向けられる光。邪気のないアクアマリンの瞳。
 数河の手にはまだハンマーが握られている。しかしその胸にアデルは頬を寄せ、背には腕がまわされた。

 ──どうでもいいことです。今のあなたに希望を与えるなら。

 数河の手から、ゴトリとハンマーが取り落された。
 無償の愛。彼にはそう聴こえていた。少なくとも、冷え固まった数河の心が癒されたことは事実である。
 ずっと辛かったのだ。誰にも言えず、誰にも心を許せないことが。それが積もり積もって、全てを終わらせたいという極論に達していた。

 防犯アラームが鳴り響くのと前後して、夕星とジタンが部屋に飛び込んだ時には、すでに危機は去っていた。開け放たれたドアの外では、ジタンに殴られた護衛がうめいている。

 止められない時の上に生きる。ならばもう、今に生きるしかないのだ。無限の可能性を持つものを、一時の感情で消滅させてはいけない。
 夕星の前にはもう、芸術を愛し育てることを生き甲斐としてきた本来の数河がいた。自嘲混じりにこぼれた笑み。それを見上げる澄んだ瞳が、応えるように細められた。

 後日。数河から丁寧な謝罪文が夕星に届く。ジタンの暴走についても、軍にパイプを持つ数河が手をまわし、不問とされた。

 ◇

「思い出したよ。アデル。私こそ欠陥品だ。人間はみな、どこか欠けてるんだ。満ちてもすぐに欠ける。それを繰り返す。でもそれは月と同じだ。光が当たっていないから、欠けたように見えるだけだ。本当は、はじめから常に満たされているんだよ」

 満たされたままの月……アデルのAIに、数河の呟いた言葉が浮かぶ。
 見上げた夜空から、少しだけ欠けた秋月が見下ろしていた。


 ──第四章 moon 了──


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