第五話 他

文字数 1,900文字

 『other』そして『mother』。

 アデルという名は『other』つまりは『他の・他人』という言葉からの造語である。名付け親はもちろん夕星だった。長い時間と労力を費やし手塩にかけたアンドロイドに、あえて『他人』と名付ける。それは夕星なりの自己抑制なのだ。好みのままに造った機体である。だが、必要以上に感情移入したのでは、仕事にならないのだ。

 恋愛も結婚もせず、夕星は研究に没頭した。それは『mother』……母親への思慕と罪の意識から逃れるためでもある。
 夕星が七歳の時。桜が舞い散る季節に彼の母親は事故死した。幼い夕星が些細なことで拗ねて駆け出したのを追ってのことだった。

 『other』そして『mother』。他人と名付けながらも、夕星はアデルを必要としていた。優しく微笑み、頭を撫でてくれた母を取り戻すために。

 ◇

「どうしたのよっ!」
「どうもこうもないよっ!」

 困惑した葉月の問いに、珍しく苛立ちを露わにした声が返った。
 通常の時間からずいぶん経ってから帰宅した夕星がドカドカと二階に上がったかと思うと、ゲスト用のバスルームに湯を張っている。アデルは管理者の心理を解析できずに、夕星と姉を代わるがわる見つめていた。

「アデルを風呂に入れるから」

 弟の言葉に葉月は目を丸くしたが、今は問い詰める時ではないと感じたのだろう。やれやれとひとつ息をつくと、こう言い残して背を向けた。

「後でね。あんたのパジャマじゃ大きすぎるから、私のを出しとくわ」
「……ごめん」

 もう階段を降りかけている姉にボソリと返すと、夕星は湯気のたつバスタブに顔を向ける。
 日頃は使わない浴室だが、メイド型アンドロイドの掃除は行き届いていた。何度かメンテナンスには出しているが、三十年前に購入したものである。学習機能の浅い、通り一辺倒な仕事しかできない機体。
 アデルはそれとは違うのだ。心の機微(きび)を読み取り、繊細に表現する機能を持っている。それなくしては、ヒーラーとはなり得ない。

「アデル。洗うから服を脱いで」

 言いながら上着を放りシャツの袖をまくる夕星に、アデルはすぐに従った。滑らかで透けるような肌。永遠に未完成の少年の身体が露わとなる。言われるままバスタブに浸かったアデルに、夕星がボディソープをぶちまけた。
 最上級のスキンに覆われた機体である。会社のメンテナンスに出せば完璧に洗浄してくれる。だが、それでは夕星の気がおさまらない。

「夕星、怒ってるの?」

 アデルの質問は当然のものだった。触れた相手の感情を即座に読み取ったのだ。それに対して、問われた側は返答に窮した。

「怒っちゃいないけど……。いや、怒ってるけど、怒ってない」
「どういうこと?」
「怒ってるけど、怒ってないと言いたい時があるんだよ」

 解析不能らしい。アデルが首を傾げ、次にこう言葉を向けてきた。

「夕星、びしょ濡れだよ。どうして夕星は服を着たままなの?」

 非常に答えにくい質問をされた管理者が、柔らかな髪を洗っていた手を止めた。ここで裸の付き合いをしてどうするというのだ。

「ノーコメント」

 ぶっきらぼうな返答を向けながら、夕星もまた解析不能な思考にとらわれた。自分はアデルをジタンによって『(けが)された』と感じたのだ。自分の大切なものを奪われたと……。脳裏には五味の呆れ顔が浮かんでいた。

「夕星。お前、アデルに惚れるなよ」

 帰りしな、五味に告げられた言葉。茶化しているような表情ではあったが、核心に触れていた。
 恋など、これまでしたこともないのだ。それどころか社会人としての付き合いすら、夕星は面倒だと思ってきた。感情を大きく揺さぶられ、翻弄されること。喪失の不安を伴うもの。アンドロイドにはそれがない。無くすことを不安に思う必要など、ひとつもないのだ。

 泡まみれのアデルに盛大にシャワーの湯をかけながら、夕星は知らず溜息を漏らしていた。大人しくされるがままになっているアデルの身体が再び露わとなる。大切なもの。無くしたくないもの。ずっといつまでも手にしていたいものが……。
 邪気のないアクアマリンの瞳が夕星を見上げていた。管理者にどこまでも従順な、アンドロイドのカメラが。

 『ジタンがロックしているデータを引き出さないことには、軍との今後の取引に支障が出る。アデルとの面談を続行してくれ』

 渋い顔をした上司の指示が脳裏をかすめた。面談……。つまりは、ジタンがアデルにとってのヒーリング対象ということだ。対象者の癒しをアデルは最優先とする。ジタンがどんな行為に及んでも拒まないのだ。
 そのプログラムを組んだ当人。夕星は、白い湯気の中に再び溜息を落とすしかなかった。

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