第18話(終)

文字数 1,664文字

 しばらくの沈黙の間、私は目の前の朝美医師の姿をただただ眺めるだけであった。恐る恐ると震える手でコーヒーカップを掴み、一口だけ口を付ける。失礼なことを言わなかっただろうかと、今更ながら私は少し緊張した。
 しかしやがて朝美医師は、ほっとしたように私に向かって微笑んでみせた。
「サクマさん、それにツバキさんも。……そのようなことを言ってくださって有難うございます。少しだけ……肩の力を抜くことができました」
 細めた後に開いた黒い瞳に、迷いや恐れといった色は一切見られない。朝美医師は命の恩人である若者の想いを受け入れたようだった。
「私はまたもや悲観的になっていたようですね。彼が今この場にいれば、きっと関西弁で怒られていたことでしょう。『しょーもないことをネチネチ言うな!』……とかですかね」
 どこか懐かしむように、朝美医師は私達が会ったことのない人物の真似をしてみせた。似ているのかどうかは、本人達にしか分からない。
「ただでさえ今日は聞き込みなどで疲れたでしょうに、こんな夜までお引止めをしてすみませんでした。写真は見つかりましたし、彼についても詳しく知ることができて本当に満足です。ありがとうございました」
 そして朝美医師は深々とその場で頭を下げた。相変わらず真っ白な髪が、彼の年齢を分からなくさせている。
「このお礼は沢山させていただきます。医者としての仕事もこの島で再開することができましたから。重ねてですがお世話になりました、サクマさん」
 やはり私個人に宛てた依頼だったのだ。私はそのことを思うと何とも複雑な気持ちになった。ツバキの付き添いのつもりで今日一日は過ごしていたし、何より私の主張の殆どは彼の受け売りだった気がする。
 しかし当のツバキは隣で優しく微笑んでいた。
「良かったじゃないか、依頼人を満足させることができて。これは間違いなく君の功績だよ。熱心に語る場面も、苦手とは感じさせないほどの勇ましさだった」
「よせよ、どうせ大根芝居みたいに思っていたんだろ」
「純粋な評価だよ。……さて、丁度朝美医師の言質もたった今取れたんだ。今日一日頑張った分の報酬を、早速ねだろうじゃないか」
 突然のツバキの物言いに、思わず朝美医師は「ええ!?」と驚きの声を上げた。ツバキは何を企んでいるのかニヤニヤと笑っている。しかし、今回の私には彼の言いたいことが読めていた。
「今日一日、本当に僕は疲れたんだよ。外は寒いし、途中で寄った花村探偵事務所では軽く口論する羽目になったし、電車は止まるしで本当にろくなことがなかった。君だって同じ気持ちだろ? サクマ?」
「ああそうだな。これは並大抵の報酬では満足できない」
 気付けば私もツバキと同様、にやりとした笑いを抑えることができなかった。一方で朝美医師はといえば、元の臆病な態度に戻っているではないか。
「あ、あの、せめて望外な金額だけはご勘弁を! さすがに医者といえど、まだそこまでの働きは……」
「いいや、僕達は必死に身を粉にして働いたんだ。余程貴重な価値のあるものでないと許されない。……言ってやりなよ、探偵」
 さすがは演出家。ツバキはこういった馬鹿馬鹿しい茶番に対して、真面目な演技で振舞っていた。表情はいたずらっ子そのものだが、今回の私はそれに呆れたりなどしない。今日一日、私達にはずっと気掛かりなことがあったのだ。互いに話題には出さなかったが、今夜はそれを解消すべく全力で乗ろうではないか。
 私は笑顔で合図のように指を鳴らすと、朝美医師を横目に堂々と大声で言ってみせた。
「これはもう、美人な奥さんとの馴れ初め話を聞かずにはいられないなあ!」
 その言葉を聞いた瞬間、朝美医師はすぐさま全身を茹でダコのように真っ赤に染めた。
「あ、あなた達まで……! そんな風に私をからかうのはやめてください!」
 慌てて戸惑う兎を前に、私達は構わず笑ってみせた。一気に賑やかな空気が応接室を包み込む。
 そしてあの夜にはユウマという名の若者も、室内のどこかで笑っていたのではないかと私は感じずにはいられなかった。
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