第7話

文字数 4,029文字

「くそっ! 案外人数が多いな、加えて銃まで出してきとる……。先生大丈夫か! 酷やけどもう少し走ってくれ!」
「五人も六人もぞろぞろと……、たまったもんやないな!」
「先生大丈夫か!? 今起こしたる! ほら、手ぇ掴め!」
 全力疾走の中、ユウマはずっと朝美に声を掛けることをやめなかった。一方の朝美は体力が既になく、返事も息切れの形でしか表せなかった。しかし幾度こけて膝を擦りむいても、立ち止まりたくなる誘惑に襲われても、朝美はユウマの言葉を信じ、前へと進んだ。
 彼一人が本気を出せば、さっさと追っ手を撒くことも可能であろう。それにも関わらずユウマは、朝美を見捨てる選択肢を取らなかった。それが分かっていたからこそ、朝美も決して諦めるわけにはいかなかったのだ。
 遠くから鳴り響く銃弾の音に肝を冷やしながら、朝美は走り続けた。流れる汗が顔に垂れるのも厭わず、ただひたすら、生きるために。
 やがて二人は寂れた廃墟の街並みに身を潜め、そして大口を開けたトンネルの入口へと辿り着いた。すでに二人とも疲労困憊だった。肩で息をしながら暗闇の中を見つめる。夏の明るさなど関係ないと言わんばかりの、真っ黒な空間が続いていた。
「よう頑張ったな先生!ここまで来ればさすがに大丈夫や。この長いトンネルは途中で小さな集落に続いてる。その分かれ道から向こうは島の南部扱いや。さすがのあいつらも、関係の無い集落や南部にまで立ち入る気はないやろう」
 ユウマは自らをも鼓舞し、「それじゃあ行くで」と朝美に声を掛けた。しかし朝美は、ここで自分のある失態に気付いた。
「ああっ! そんな!」
「なんや、どうしたんや?」
 慌てる朝美に、ユウマは冷静に彼に尋ねた。
「妻の写真が……、胸ポケットに入れていた、妻の形見がないんです!」
「まさか、落としたんか!」
 朝美はすぐに白衣を脱ぎ、二人は懸命にポケットを探った。
「どれぐらいのサイズなんや?」
「手帳と同じぐらいです! ああ、その手帳もない……!」
「先生、走ってる途中で何回かこけたやろ。きっとその時やな、他に考え付かん。今日はずっと白衣のポケットに入っててんやろ?」
「は、はい。そうです」
「そうか……」
 ユウマは地面に置いたばかりの白衣から立ち上がり、これまで走ってきた方角をしばらく見つめた。
「これは諦めるしかないな……。まだ追っ手は俺らを探しているはずや」
 すると朝美はきつく唇を噛み締め、そして口を開いた。
「……戻ります」
「はあ?! 何を言ってんねん!」
 これにはさすがのユウマも、人懐っこい目を大きく見開いた。
「先生お前、自分が何を言ってるか分かってんのか! 追われてんねんぞ! しかも一人やない、少なくても五人や!」
「分かっています!けれど……! あの写真が唯一の妻の形見なんです! 医者として働いていた間も、肌身離さず身に付けていた……。組織の人達に連れてこられた時も、あの写真だけは懇願して没収から免れたんです! あれ以上に大切な物はない!」
「自分の命よりも大事やって言うんか!」
 ユウマは怒鳴った。これには朝美も身を縮めて黙り込む。しかし彼の言い分が妥当であることは、朝美自身もよく分かっていた。
「ええ、大切な物です。たかが写真一枚と思われても……」
「……」
 この白髪の医者はどれほど愚かなのだと、心の中で軽蔑されたに違いない。朝美は悲しくもそう確信していた。
「ユウマさん、本当に……申し訳ありません。しかし私はどうしても戻らなければならない。ここまで私を連れてきてくださったことには、本当に感謝しています。ありがとうございます……」
 朝美は深々と丁重に頭を下げた。見下ろすユウマの表情から、目を逸らしたいという気持ちもあった。
「……先生。面倒やと思われても、もう一度言わせてもらうで」
 しばらく黙り込んだ後、ユウマはようやく口を開いた。
「先生にとってどれほど大事な物でもな、所詮は薄っぺらくて小さな写真一枚や。先生の気持ちでサイズが大きくなったりはせえへん。それをあのジャングルみたいな無法地帯で、しかも追っ手の視線も掻い潜りながら探すやなんて、不可能や」
「承知しています」
「先生……。あんた、死ぬで」
「分かっています」
「……ほんまに。優しくて鈍いようで、先生は滅茶苦茶やな。運動神経もないのに、岩のように頑固ときた」
「……すみません。ここまでせっかく助けていただいたのに」
 ユウマは諦めたような微笑みを浮かべ、朝美はそれを見ることも辛かった。写真を無事に取り戻せる確率は数パーセントもない。朝美が選択しようとしている行動は、あまりにも無謀である。しかしいくらそれを頭で理解していても、朝美は決意を変えることができなかった。
「……分かった」
 ユウマはため息を一つ吐いてから言った。「しゃあないな」と後に続くかのように。
「俺一人で行くわ。先生は先行って待っとき」
「何を仰るんですか!」
 今度は朝美が驚く番だった。対するユウマは汗で濡れた前髪を払い、平然としている。
「これは私個人の問題なんですよ? ユウマさんは全く関係がありません! あなたは先に逃げて下さい!」
「悪いけどそれは飲めへんわ。言うてなかったけどな先生、俺は先生よりもさらに頑固な性格やねんで」
「ユウマさんに私の写真を取りに戻るメリットがありません! あなたは私よりも若いし、運動神経もいい。生きて南へ逃げ抜く確率だって高いんですよ!」
「それなら写真を見つけて帰ってくる確率も俺の方が高い。追っ手と途中で鉢合わせても、俺は先生と違って戦える」
「複数人を相手取るなんて無茶です!」
「だったら先生は諦められるんか?」
 朝美は唇を噛み締めた。
「……でしたらせめて二人で行きましょう! 役割を分担して、そうすれば」
「あかん、正直言って足手まといや。」ユウマは一蹴した。「先生は先にトンネルの中で隠れとけ。後から追いかける」
「どうしてですか!」朝美も負けずに声を張り上げた。「再三言いますが、これはユウマさんには関係がありません! 私の為に無茶な行動を取る必要はないのです! それなのにどうして、どうして私を一人で行かせてくれないのですか!」
 男二人の喧騒は、静かに佇む森全体に大きく響き渡った。
 向かい合い、やがて互いに息を切らしたまま、息遣いだけが残る。
「へへ、決まっとるやろ」
 そしてユウマは、これまで朝美が見た中で一番の笑顔を見せた。
「先生が愛した、世界最高の女の顔が気になるからや」
「なっ……!」
 朝美は途端に赤面した。ここまで真剣に言い合ってきて、唐突に冗談を言われるとは思ってもみなかったからだ。
「そ、そんな理由で……! 私の精神を乱そうとしないで下さい! 卑怯ですよ!」
「あはははは! せやけど先生、奥さんが一番大切なんやろ? まさか結婚している間、他の女にうつつでも抜かしてたんか?」
「違います! 断じてありませんよ、そんなこと!」
「せやったら世界最高の女やないか。先生にとって、なあ?」
 ユウマは朝美にぐいと近付き、ひたすらニヤニヤと笑っていた。火照った顔から汗が滲み出そうだ。勿論それは暑さのせいではない。
「まあええわ、先生いじめて遊ぶんはここまでにしよ」
 そしてユウマは朝美から離れ、準備運動を始めた。
「さっきのは冗談半分、本気半分や。先生が一人で行ったとしても、写真を取り戻せるわけがない。可能性のないことを期待して待つんも退屈なもんや。それやったら俺が一人で行ったほうがええ。先生という足手まといもないし、奥さんの顔も拝めるかもしれん。それに何より……」
 そしてこの時、ユウマは先程までとは打って変わって残忍な表情を見せた。
「俺一人で手練の五人を全員殺せるかどうか、試してみるんも面白いやないか」
 白く尖った歯を見せて、ユウマは笑った。まるで狩人のように。殺人鬼のように。そしてまだ見ぬ獲物を、鋭い瞳の中に浮かべていた。
 この時朝美は思い直した。ユウマは真性の善人ではない。人を殺し慣れた、組織随一の戦闘狂としての一面があるのではないかと。
「ユウマさん……」
 朝美は若者の名を呼んだ。先程までの優しい人柄に戻ってほしいと思ったからではない。ここまで助けてくれた恩人との別れを感じ取ったからだ。
「先生そんな顔せんといてや! 心配性やなあもう」
 朝美の泣きそうな表情に気付いたのか、ユウマはいつものあどけなく優しい顔に戻った。
「追っ手と鉢合わせでもせん限り、すぐに戻ってくるって! 先に俺が追っ手を見つけても、変なちょっかいは出したりせえへん。約束や」
 そう言ってユウマは、右手を差し出した。
「……約束ですよ」
 応えるように、そして縋るように、朝美は彼の手を握った。豆の多くできた、スポーツ選手のような掌だ。しかしそれにしては、少し華奢であるようにも感じる。
「絶対に戻ってきてください! 最悪写真は気にしなくても構いませんから! どうかユウマさんの命を優先してください! あなたが戻ってくるのを……この先で、待っています」
 最後の言葉は震えてしまっていた。果たしてこの選択が本当に正しいのか、朝美は自信を持つことができなかった。
 しかし一方でユウマは、頼れる笑顔で大きく頷いた。
「おう! 待っとけ待っとけ。奥さんがどんな人やったんか、後で教えてもらうからな」
「え?! い、いや。それは……」
 朝美は再び赤面しそうになる。すると未練も無しにユウマはその手を離すと、手を振りながら元来た方向へと走っていった。
「またな! 先生! って、あ! 忘れてた!」
 そう言って最後に、ユウマは一度だけ振り向いた。
「帰ったら、奥さんとの馴れ初めも教えてなあー!」
「これ以上からかうのはやめて下さいっ!」
 小さくなる若者の姿に、朝美はやれやれと思いながらも笑って手を振る。ユウマは笑顔で手を振り返すと、今度こそ遠い彼方へと消えていった。
 それ以降、朝美は彼との再会を一度も果たせていない。
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