第16話

文字数 1,857文字

 すると突然、私は机の下で足を蹴られた。隣に座っているツバキである。「いっ」と驚きの声が出るのを辛うじて抑え、私は鋭く彼を睨んだ。
「いきなり何をするんだよ」
 朝美医師にばれないような小声だ。ツバキはそれでも私だけに聞こえる、はっきりとした声を放った。
「ここからは君から話しなよ。その方が彼のためでもある」
「お前がここに来る道中で言っていたことか? 説明されるまで分からなかった俺にどうしてそんなことさせるんだよ。お前が教えてやればいいじゃないか。頭が良い上に弁が立つんだから」
「やれやれ、最後まで君は気付かなかったんだな」
 見つめてくる灰色の瞳に、少しだけ刺々しさが感じられた。しかし口調は柔らかい。
「いいかい。そもそも今日、朝美医師に人探しを依頼された素人探偵は僕じゃない。君なんだぜサクマ? 今回は僕が付き添いだ」
「はあ? そんなわけあるか!」
「それがあるわけさ。君は全く鈍感な男だよ」
 そしてツバキは簡単な説明をした。
「僕が最初に気付いた点から教えてあげよう。まずは二人で朝美医院を訪れた時だ。先立ってインターホンを押した君を朝美医師は優しく応対した。そして君の後ろに突っ立っていた僕に対しては『ご友人』と言ったんだ。この時点で朝美医師が僕ではなく、君に話をしたかったのが分かる。」
「それはまだ俺達が名前を名乗ってなかったからだろう。朝美先生はどっちが〈ツバキ〉か分からなかったから、偶然目の前にいた俺をそう勘違いしたんだ」
「成程、よく考えたね。しかしそれは次の点で覆すことができる。応接室で本当に依頼をするかどうか、僕が朝美医師に確かめた時だ。朝美医師が決意をした時、彼は僕ではなく君の方を向いて断言していただろ」
「意識せずとも視線を動かしてしまうのは誰だってあることだ」
「命の恩人の捜索を頼む時でもかい? それは無理があるよサクマ。現にそれまでの会話でも、朝美医師は君の発言によく耳を傾けていたが、僕に対しては微妙な反応ばかりだった」
「ひねくれた考え方だな」
 私は呆れながら反論した。
「それはだなツバキ、お前がただ構ってもらえずに臍を曲げていただけじゃないのか?」
「いいや。この点に関しては全く僕は気にしていないよ」
 確かにツバキはけろりとした様子だった。
「秋のトンネル探検で朝美医師と出会った時のことを思い出して、ようやくピンと来たのさ。彼は〈頭が賢くもドライに接した僕〉よりも、〈鈍感ながら真面目に話を聞いてくれた君〉を頼ったのだとね」
 推論ついでにツバキは私を軽く貶してきた。むっとしたが、ひとまずは黙って聞いてやることにする。
「そして最後に君に提案するよサクマ君。もう一度、ガトーが君に頼んだ時の言葉を思い出してみなさい」
「ガトーの言葉?」
 言われた通りに私は思い返してみた。今日の午前に私の部屋へとやってきた、赤毛の少年の発言を。

 すみません。実は……サクマさんにお願いしたいことがあるみたいで……

 辻褄が合い、ツバキの一見強引な推測も理解した。嘆くような息を吐いて、ついに私は片手で目元を覆う。
 全ては私の早とちりだった。ガトーが朝美医師の件を頼んできた時、少年はツバキのツの字すら口にしていないではないか。
「そもそも僕にも用があるなら、彼は君から原稿を受け取った後で僕も呼べば良かっただろう? 部屋はすぐ隣なのだから」
「ああ、確かにそうだ……」
 私はショックを受けていた。
「しかし少年がそれをしなかったのはね、恐らく彼なりの配慮だったのさ。朝美医師はもしかするとこう思っていたんじゃないのかい。『出来ることなら、このことは無関係な人間に知られたくない』」
「それはつまり……」
「朝美医師は南部の人間すら全幅の信頼を置けなかった。北部であんな理不尽な仕打ちを受けたんだ。組織のスパイが紛れている可能性を彼は非常に恐れたのさ。だから少年は君にだけ話をした。それなのに君は僕という無関係な人間にそれを伝え、挙句の果てに連れてきて……。朝美医師が君を信じて依頼したとしても、多少は不安に思ったはずだよ」
「でも今回お前は自分から乗ってきただろ! 俺が強引に連れてきたわけじゃない」
「確かに乗り気ではあった。君個人に頼まれたものとは知らなかったからね」
 あっさりとした正論に私は玉砕した。いつも私がツバキに振り回されることが多いのに、今回は違った。私が彼をこの出来事に巻き込んだのだ。
「よってユウマという若者が朝美医師を恨んでいなかった点は、君から説明してあげたまえ。依頼を受領した人間らしく、誠実にね」
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