第17話

文字数 2,931文字

「……朝美先生」
 私は暫くしてから勇気を振り絞り、目の前に座る朝美医師に声を掛けた。「は、はい」と白髪の医者はか細い声で返事をする。命の恩人が死んでいたと分かってから、彼の弱々しさはさらに頼りなく感じられたが、それでも涙を私達に見せることはない。性格は臆病でも、心の芯の強さは私よりも逞しいのではと感じられた。
 ツバキは私の隣で黙りこくっている。
「ユウマさんは決して、あなたに恨みや憎しみといった感情は抱いていなかったと思います」
 私は真正面から依頼人を見据えた。元々こんなことを訴えかけるのには慣れていない。幼い頃から私は、自分の意見を言葉にするのに時間のかかる人間だった。
 しかし今はそんなことで躊躇する場面ではない。
「それは……集落にいた少年の話から導いたことでしょう?」朝美医師は懐疑的であった。「人間の本当の心というのは、他人には分からないものです。彼の心の内は、全く別の感情の色に染まっていたのかもしれない」
「ユウマさんを信じられませんか。短い出会いだったとしても、朝美先生にとっては大切な人だったんでしょう? そうでなければ、私達に人探しを依頼したりはしない」
「確かにそうですね。ユウマさんはこんな老いぼれのような姿の私に優しくしてくれた、親切な若者でした。けれど彼は私のことを『足手まとい』とも言っていた。彼の順調だった逃走劇を滅茶苦茶にしたのも私なんです」
 卑屈で自嘲的な言い方だった。元からネガティブである私が、つい共感できてしまうほどに。しかしだからこそ、私はこの心優しき医者を助けたいと強く思った。
 かつての夏の日、ユウマが彼を絶体絶命の窮地から救い出したように。
「朝美先生が信じられないというのなら、私は信じられる証拠を提示するのみです」
 私は覚悟を決めて話し始めた。結局はツバキが道中で言ったことの復唱となるのだが、それでも相手を説得するには自分の論述と忍耐がものを言う。
「そもそもユウマさんが恨んでいたのだとしたら、それまで走ってきた道を戻ることなど絶対に有り得ません。その点は朝美先生もご納得いただけるでしょう。あなたは最後の最後まで食い下がろうとしたんですから」
 これに朝美医師はまず頷いた。しかし次の瞬間にはまた落ち込んでしまう。
「しかし追っ手と遭遇した瞬間に彼は後悔したかもしれません……。自分の選択が間違っていたと」
「それは違うと思います。何故ならユウマさんは組織の元幹部で運動神経が高かった。それに本来は好戦的な性格だったのでしょう? これは朝美先生が話してくださった主観的な観察ではなく、ユウマさん自身がそのように発言している。そしてこれは決して嘘ではない。虚偽の発言をするメリットも特にありませんから。加えて彼は相打ちという形でも追っ手の五人全員をナイフ一本でやっつけてみせた。本当に後悔したなら走って逃げたはずですよ。それかもしくは、元幹部として部下を言いくるめようと画策したはずです」
「けれどそれは、私が妻の写真を見つけたいなんて言ったからできなかったのかもしれない……。余計な役割を背負ったせいで、ユウマさんは思うような行動ができなかった」
「もしも朝美先生の言う通りだったら、もっと簡単な方法でユウマさんは先にあなたを見捨てることもできたはずです。例えば……例えば、そう! あなたとの約束そのものを破棄してしまえばいい」
 例えの部分は私のアドリブだった。
「もしもユウマさんがあなたを恨んだとしたら、自分が絶体絶命のピンチに陥る前にできたことがいくらでもあったでしょう? 写真は見つからなかったと言ってすぐに戻ってくればよかった。もしくはあなたの逃げた場所を、追っ手に情報として流してもよかったんです。そうすれば彼は元幹部ということもあって、組織に戻れた未来もあったかもしれない。しかし彼はそうしなかった。これでも朝美先生はまだ、ユウマさんが自分のことを恨んでいたとお思いになりますか?」
 話す言葉に力が籠る。まるで、ここにいない誰かが手助けをしているかのように。
 ユウマは絶対に朝美医師のことを恨んでなどいなかった。それは私も、隣に座るツバキも分かっている。そして朝美医師本人にも本当は伝わっているはずなのだ。しかしそれを朝美医師が認めないのは、単に彼が頑固だからではない。
 彼こそが恨んでいるのだろう。朝美聡という人間を。一人の若者を死地へと送り出してしまった自分自身を。
「そう言ってくださるのは有難いことですが、所詮は理論上の話です」
 朝美医師は私から顔を背けた。
「冷静な環境下であったならサクマさんの仰る通り、彼は私を恨んでなどいなかったのでしょう。しかし人間、自分でも思うように動けなくなることなどいくらでもあります。現にユウマさんと私は極めて過酷な環境下にいた。たとえ熟練の戦士でも、未熟な中年の医者であっても窮地であったことに変わりはありません。ユウマさんは道を戻る間、様々な選択肢を選ぶ余裕すらきっとなかったんです」
 私は言葉に詰まってしまった。確かにそうだ。全ての行動に理性が必ず働くわけではない。時には考えること自体を放棄し、時には疲労から誤った選択をしてしまうこともある。ユウマが朝美医師のいないところで焦っていた可能性も決してゼロではないのだ。もう少しで上手く伝えられそうなのに、もどかしさが私の心に湧き上がる。
 すると隣にいたツバキが助け舟を出した。
「先生、それは違います。ユウマさんは選択肢が数多くある中で、あなたのなくした写真を見つけ出すことに決めた。そして一方のあなたは、そうして死ぬこととなった彼から一度も負の感情を抱かれなかったはずです」
 続けて一言。「僕とは違ってね」
「本当に、そうなのでしょうか……。いえ、しかし私は彼に酷いことを!」
「先程僕がお返しした奥様の写真を、もう一度ご覧になってください」
 細長い指を目の前で組み合わせ、ツバキは穏やかに諭した。朝美医師は内心では疑いながらも、その言葉に従う。まるで、自然と導かれているかのように。
「じっくりと見させてはいただきましたが、特にこれといった違和感もありません。私がなくした以前と同じ、何の変哲もない妻の写真です。……これがどうかしましたか?」
「それこそユウマさんがあなたを信じていた証明ですよ。多勢に無勢の状況で格闘をして、写真に傷が一つもないのは不自然ではありませんか?」
 はっと朝美医師は大きく目を見開いた。木製の額や写真を保護していた硝子に、確かに大きな傷は一つもない。ユウマは戦いながらも写真を大切に守ったのである。
 灰色の瞳に促されて、私は説得を再開した。
「ユウマさんの所持品はナイフ一本。拾い上げた写真をしまうには、上着やズボンのポケットぐらいしかなかったはずです。それでも彼は奥さんの写真を壊さないように配慮した。たとえ写真がどんな状態でも、ユウマさんと共に戻ってくればあなたは喜んだはずではないですか? それでも丁寧に扱おうとしたユウマさんの心に、恨みのような感情があったとは思えません」
 そして最後に私は、朝美医師の目を見て言った。
「最期までその意志を貫いたユウマさんを、朝美先生、信じてください」
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