第15話

文字数 2,762文字

 私達が朝美医師の恩人の行方を掴んだのは、集落での聞き込みが不発に終わり、手土産もなく帰ろうとした時だった。朝美のほかに北部から脱走してきた生存者がいないか懸命に探したが、見る影は一人もなかった。また集落に住む人々に尋ねても、関連する話題は一言も出てこなかった。
 集落の入口付近で合流し、駅へ戻ろうとした所で私は誰かに上着の裾を掴まれた。振り返ると小さな男の子がこちらを見上げている。小学校低学年ぐらいだろうか。
 突然のことに戸惑っていると、先を歩いていたツバキが近付き、少年に優しく話しかけた。
「君、どうかしたかい。このお兄さんに言いたいことがあるのかな?」
 ツバキはかかんで少年に目線を合わせ、私を指差しながら尋ねた。咄嗟の行動でも子どもの扱いに慣れているのが分かる。すると少年はかじかんだ手を擦り合わせつつ、口を開いた。
「お兄さん達、兎さんのお友達?」
 兎さん? と私は聞き返した。
「少し前に、近くで倒れていたお兄さんが言ってたの。『いつか真っ白な医者の兎さんが来ると思うから、これを渡してほしい』って」
 そして少年が私達に見せたのは、木製の額に入った小さな写真だった。重ねた年齢の魅力を存分に活かした、すっきりとした目元の女性が微笑んでいる。私達は顔を見合わせ、すぐに朝美医師の亡くなった妻だと判断した。
 ツバキは少年に「ありがとう」と感謝を伝えると、すかさず尋ねた。
「ねえ君。その倒れていたお兄さんのことだけど、今どこにいるか知っているかい」
「雲の上ってママが言ってた。オハカなら家の近くにあるよ」
 少年はその言葉が示す本当の意味すら知らず、笑顔で言ってのけた。私は背筋に緊張が走ったが、ツバキはその気配すらおくびにも出さず少年に再度尋ねる。
「君の家はどっちにあるの?」
「あっち。夕日がきれいな方」
「わざわざこのお兄さんの後を追いかけてくれたんだね、ありがとう。ところで、君の家に住む大人の人はいるかな?」
「さっき仕事から帰ってきたばかりだよ。ぼくも学校から帰ってきた」
 どうやら私と入れ違いになり、聞きそびれたようだった。すぐに私達は少年に案内されて彼の家に向かった。そして少年の母親と見られる女性から、ユウマという若者の最期を知ることとなる。
 最初に彼の姿を見つけたのは少年だった。夏休みが近付くなか、虫取りをしていた夕暮れ時だったらしい。人気が少なく暗い林の中で、少年は男が一人うずくまっているのを見つけた。低く呻き声を上げ、見るからに苦しそうな様子であった男を見て、少年は好奇心半分に声を掛けてみた。すると彼は水を求めてきたので、近くの井戸水をすくい上げて与えてやったのだという。
「はは……少しは生き返ったわ。ありがとな、坊主」
 息も絶え絶えの状態でユウマは感謝の言葉を述べた。後で母親が来てみれば、彼は腹部からかなりの出血をしていたのだという。少年がそのことに気付かなかったのは、ユウマが暗がりの中でうつ伏せの状態だったからだろう。
 母親は急いで医者を呼ぼうとしたが、重傷である彼自身がそれを拒否した。自分は仲間を裏切るような半端な人間だからこうなった。助かる見込みがないのも分かりきっている、と。
「いつか俺を見つけに、悪い奴がここに来るかもしれん……。ここに迷惑はかけへんから、俺が死んだら躊躇いなく燃やしてくれ。奥に五人ほど追っ手の死体があるから、それと一緒に頼むわ……」
 そんな言葉に母親が狼狽える中で、若者は死ぬ直前まで少年と話をしていたらしい。返り血も自分の血も浴びたカーキ色のフードから、彼は一枚の写真を取り出した。
「ほら、見ろよ坊主……。この女の人、えらいべっぴんさんやろ」
「ハナちゃんのほうが可愛い」
「ははは……贅沢なこと言うなあ。世界で一番綺麗な女の写真やぞ?」
 咳き込みながらユウマは軽薄に笑った。そして色白の肌から徐々に血の気が引いていく中、彼は少年に一つだけ頼み事をしたのだという。
「ええか坊主、さっきお前はハナちゃんのほうが可愛ええ言うたけどな……。いつかここに、この写真の女を心から愛した男がやって来る。真っ白な兎みたいな男や。いつも怯えてびくびくして、虫一匹殺せへん……。どうしようもなく弱くて、どうしようもなく優しい医者や。おっさんやったけどな……俺の友達やねん。そいつに渡してくれ」
 若者はもはや、少年の反応を伺うことも出来ないほどに衰弱していた。虚ろな瞳は茜色の空を見上げ、最期には糸が切れたような笑みを浮かべたという。
「あーあ……。先生の馴れ初め聞けんかったんが悔しいわ……」
 そう言って彼は息を引き取った。そして少年の母親は恐怖からユウマの遺した言葉通りに従った。写真と血染めのフードを残し、ごく一部の集落の人間と協力して、ユウマの遺体を奥にあった死体の山ごと燃やしたのだという。
 昼に訪れた応接室に再び案内されると、ツバキは「恐らく」と言葉を続けた。
「ユウマさんはあなたと別れて北部への道を戻った後、かなり早い段階で奥様の写真を山中で見つけたのでしょう。そこまでは良かった。しかしそれと同時か、もしくはあなたが待つトンネル跡まであと少しというところで、彼は追っ手と鉢合わせてしまった。あなたの話通りなら追っ手は五人。武器もナイフ一本だけでは、彼の運命は明白だったでしょう。何とか相討ちにして追っ手の足を潰し、あなたを逃がし切ることに成功したものの、自分の命までは守れなかった……」
 しかし多勢に無勢という苦しい状況で相討ちにまで持ち込んだ。組織の元幹部と言うだけあって、ユウマはかなりの猛者だったのだろう。写真をなくすというトラブルさえなければ、きっと二人は無傷で逃げ切ることができたはずだ。
 だからこそ悔やまれる。一度も顔を合わせたことのない私でさえそう思うのだ。朝美医師の悔しさはこの比ではないだろう。
 真っ白な髪を左右に撫で付けた彼は、口から血が滲むのではと私が心配するほど、強く唇を噛み締めていた。膝の上の両手は拳をつくり、震えている。
「見つけてくださり、ありがとうございました……。一日のうちに、あっさり片付いてしまったんですね。なんだか呆気ないといいますか」
「たまたまですよ」とツバキは冷静に答えた。
「こうしてあなたが気を落とす結果になってしまったのは、僕としても誠に残念です」
「いえそんな! すみません……。こちらから依頼をしたのに、気を遣わせてしまって」
 朝美医師はそう言うと何度も頭を下げた。真面目すぎるのか気弱なだけなのか。しかし今はその態度にも力が感じられない。
「きっと彼は私を恨んでいることでしょう。私が写真さえ落としてなかったら、彼が死ぬことはなかった……」
 朝美医師は俯き、目から涙を滲ませる。酷く重々しい空気が私達三人を包み込んだ。
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