第6話

文字数 3,128文字

 長時間体を預けていたからか、脱走した当初よりも朝美の体力は戻っていた。そして朝美は深呼吸を繰り返した後、ユウマの姿をまじまじと見つめた。
 先程までは後頭部しかまともに見ていなかったが、正面を見れば彼の衣服にはおびただしい量の血の汚れがあった。勿論それは時間が経過して茶色に濁っていたが、飾り程度に着たカーキ色のフードと合わせると、自然に紛れるための保護色になっていた。
 所持品は主に腰に提げたナイフだけのようで、ケースの中の刃は極めて鮮やかなのだろう。
「んもう! 先生、そんなに見んといてや! スリーサイズでも計られてるみたいやないか」
 殺伐とした見た目に対して、ユウマは頬を染めて照れていた。まるで悪戯のばれた子どものように。
 しかしそれに対して朝美が何も言わないでいると、彼は急に真顔になった。
「……ちょっと先生、せっかく俺がボケたのに無視せんといてや。そういうのは『ボケ殺し』言うねんで」
「え? あ、はい! すいません」
「もう、先生はどんくさいなあ〜」
 文句を言いながらもユウマは快活に笑った。朝美の鈍い性格に気付き始めたからだろう。
「外やと長袖の白衣なんて暑いやろ、はよ脱ぎや」
「いえ! 貴重品など大事な物が入っていますので。……便利なポケットがないと、困るんです」
「ああそっか」
「ここまでおぶっていただいて、ありがとうございます」
 朝美は感謝を述べて頭を下げた。
「ええよ感謝なんて。それに先生は俺より歳上やろ? 敬語なんて使わなくてもええねんで?」
「いえ! そこはお気になさらず。元々の上下関係に関わらず、こういう口調なもので」
 朝美は謙遜ではなく事実を述べた。礼儀正しい家庭で育った朝美はこれまで、地元の言葉遣いには一切染まることがなかった。それ故に生まれてこの方、標準語しか使えない。
「そうなん? まあええわ」とユウマは強制もせずにこれを受け入れた。
「ところでユウマさん、あなたに一つお伺いしたいことがあります……。彼らの仲間とは、一体どういうことですか」
「そのまんまの意味やで。俺は施設にいた組織の仲間。加えて自慢するなら元幹部や」
 ユウマは意外にもあっさりと答えた。
「先生を大阪から拉致したんも覚えてるで。たまたま俺もそん時おったから」
 朝美は瞬時に何も言えなかった。この明るく優しい若者が組織の人間、それも上層部であることが信じられなかったからだ。たとえそれを事実として受け入れたとしても、朝美には恨みや憎しみの言葉を吐く気にはなれなかった。
「信じられません」と朝美は言った。
「幹部であるあなたが、どうして私と同じように逃げているのですか? 組織から見れば裏切り行為ですよね?」
「それはな先生。……俺はヤバいことを知りすぎた。簡単に言うなら、足洗いたいねん」
 この時初めて、ユウマは悲しい表情を浮かべた。
「先生は医者なんやろ? やったら大体、どこの施設におったんか見当がつく。解剖とかやらされまくった所やろ」
「え、ええ。そうです」
「目的とか用途とか、組織のことも全く分からんかったやろ。先生が手伝わされたアレは、あいつらにとっては重要な実験なんや。そして、俺はその先を知ってしまった」
「その先……」
「知りたいか? 今よりもっと命狙われるようなるで」
 朝美はそう聞くや否や、首を大きく左右に振った。これ以上危険な目に遭うのは耐えられそうにない。
「あはは! 先生は弱そうやもんな。でも、その方がええと思うわ」
「そろそろ歩こか」と言って、ユウマは先を進んだ。
 決して足元の整っていない道無き道。自然に朽ちたのか、それとも人道的に切られたものなのか、葉のついた小枝が踏まれて音を鳴らした。
「ユウマさん、先程から追っ手が来ないように見えるのですが」
「そりゃあ、あいつらの使う道はちゃんと外してあるからな。もうすぐ隠れられそうな場所に着くで」
「頼りになります」
「……なあ、先生」
「はい、なんでしょう」
「先生は大切な人に裏切られたこととか……ある?」
 ユウマはどこか伏し目がちに朝美に尋ねた。
「大切な人……。程度の差はあれど、人との関わりはどれも大切で貴重なものと私は思うのですが」
「じゃあ特に身近におる人でええよ。……先生は拉致されてもうたから、『かつて身近におった人』になってしまうかもしれんけど」
 朝美は黙り、しばらく考えを巡らせた。首筋に流れた汗を拭い、そしてすぐに「ありませんね」と答える。
「ほんまに? ただの一度も?」
「ええ、ありません。私の予想を裏切られることは多々ありましたが、一つの感情として裏切られたと思ったことはありません」
「ちなみに、それは誰なん」
「妻です。二年前に亡くなりました」
 朝美は穏やかに微笑みながら、前を歩いた。
「十三年間連れ添って、子どもはいませんでした。妻は私にとって、今でもかけがえのない存在です。常に笑顔を振り撒いてくれました。気弱で臆病な私を楽しませるために、時には破天荒な行動に出ることもあった。しかしそれは全て、私のことを思って考えてくれたことです。困り果てたことは何度もありますが、傷付けられたことは一度もありません」
そう言い終えたあとで、朝美は「すみません! 長々と……」と慌てた。しかしユウマは「へえ」と笑うだけだった。
「ええ奥さんやってんな」
「ええ。彼女の病気を治してやれなかった事が、今でも悔やまれます」
 木々の間から突き刺す太陽は、じりじりと朝美らの体を焦がしていく。やがてユウマは、相談でもするようにぽつりぽつりと呟いた。
「俺にとって大切な人はな、先生。組織の仲間やねん。長年の付き合いやったし、仲も良かった。逃げてきた今ではもう、敵対する関係かもしれへんけどな」
「そんなことはありませんよ。人間、すぐには考えを変えられません」
「優しいなあ先生は……。俺はな、先生。組織のヤバいことを誰よりも真っ先に知ったんや。もしかしたらトップの三人以外、まだ何も知らんのかもしれん。でも俺は急に恐ろしくなった。あいつらは気が狂ってる。絶対にやってはあかんことを実行しようとしてるんや。そしてそれを知ってか知らずか、皆で今の生き方を楽しんで笑っている。それが怖かった。俺には耐えられなかったんや」
 ユウマの話す内容は抽象的ではあったが、彼なりに考えている真剣さを朝美は瞬時に感じ取った。これまで行ってきたことはともかく、彼は真の悪人ではない。長く葛藤した上で、組織から抜ける覚悟をしたのだと。
「やけど神様は多少俺に優しくしてくれたみたいやな。こうして逃げ出すのに成功したし、先生に会えたんもオマケの幸福かもしれん。あちこち爆破してやってんけどな、ボスにも傷を負わせてやってんで! あれはきっと大怪我もんやわ。体制にも影響が出る」
「私の施設でも起こった爆発は、全てあなた一人で行ったのですか?」
 朝美は目を丸くした。
「そうやで。誰かに言ってバレたら、それこそまずいやろ」
 ユウマは事の重大さに対して、簡単に言ってのけた。組織全体の規模は分からないが、施設が複数あるだけの潤沢な資金と、それに対応できる人員がいたことは監禁中の朝美でも分かる範囲のことだった。それを何ヶ所にも渡って、あの混乱した状況なら壊滅寸前まで追い込んだはずである。それをたった一人で行ったとは。朝美は驚きと共に、動揺を隠せなかった。
「こう見えても俺、組織の中では一、二を争う強さやねんで。運動神経と戦闘には自信があるねん。っと、どうやら追っ手が来たみたいや。走るで!先生!」
 ユウマが気配を感じたのか後ろを振り向いた。小さくだが人影が複数、こちらへ近付いて来るのが分かる。
 朝美は先を行くユウマに遅れを取らないよう、必死に走った。
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