第95話 欠落
文字数 1,039文字
人として、大事であるはずの何かが、きっと私は欠落しているのだと思う。
今まで小説らしきものを作ったこともあるけれど、その主人公なり登場人物に、自分の芯から移入させることができなかった。できていたとしても、自分と彼らとの間にかなりの乖離があると思えた。
これでは、小説なんか書けっこない。
「この感じを、どうしたら読む人に伝えられるか」というところで、もう頭の中がすっぽり、無重力になってしまう。どんな言葉も、そぐわなくなる。
「私」が「彼」になると、ワープするようなネジレた異空間に入ったようになり、まっすぐに書けない。
私は根っからの自己中心で、人を思いやることも、人を愛したこともないのではないかと思う。
多く(かどうか知らないが)の作家は、小説を書いた時、自分の描く人物に泣いたり、一緒になって嬉しがったり、作品自体に感動したりするらしい。だが、私は小説を書いていた時、ほとんどそうなれなかった。無理があった。
私の小説は、文字は書いてあるが、何も書いていないも同然の、「つまらない」ものにもならなかったと思う。
不意に感じる。今、私はここに何か書いているけれど、これも本来、自分のするべきことではないのではないか、と。何らかの役割を背負って、人がこの世に生を受けるのならば、自分のするべきことは、こんな物書き作業に時間を費やすことではないのではないか、と…
自分が「書くこと」にこだわり始めたのは、友達のお父さん(「商品化された教育」といった本を書いていた方)に、私の書いたものを「出版社に送りましょうか」と言われたこと、そしてブログでいろいろ書いていた時、いろんな人から褒められたことに由来する。でも、きっとそのせいではなく、何だかんだと、何を言われようと書き続けただろうと思う。
今まで、自分の書いたものを通じて、いろんな人と実際に会えて嬉しかったし、人に私は悪い影響を与えていないようだった。私は、パソコンにへばりつく現実から離れ、
いや、それは、それこそ架空の話だ。今、それをしていないから、そう思えるんだろう、と思う。
あまり極端に考えず、0か100かでなく、淡々と、淡々とやって行けたら!と思うのも、私が根本的にそうでない人間だからだろう。
「小説の方が、真実に近い感じがするなぁ」20年くらい前、そう言っていた友人の言葉が、よく思い出される。
自分に小説は書けそうにない。
今まで小説らしきものを作ったこともあるけれど、その主人公なり登場人物に、自分の芯から移入させることができなかった。できていたとしても、自分と彼らとの間にかなりの乖離があると思えた。
これでは、小説なんか書けっこない。
「この感じを、どうしたら読む人に伝えられるか」というところで、もう頭の中がすっぽり、無重力になってしまう。どんな言葉も、そぐわなくなる。
「私」が「彼」になると、ワープするようなネジレた異空間に入ったようになり、まっすぐに書けない。
私は根っからの自己中心で、人を思いやることも、人を愛したこともないのではないかと思う。
多く(かどうか知らないが)の作家は、小説を書いた時、自分の描く人物に泣いたり、一緒になって嬉しがったり、作品自体に感動したりするらしい。だが、私は小説を書いていた時、ほとんどそうなれなかった。無理があった。
私の小説は、文字は書いてあるが、何も書いていないも同然の、「つまらない」ものにもならなかったと思う。
不意に感じる。今、私はここに何か書いているけれど、これも本来、自分のするべきことではないのではないか、と。何らかの役割を背負って、人がこの世に生を受けるのならば、自分のするべきことは、こんな物書き作業に時間を費やすことではないのではないか、と…
自分が「書くこと」にこだわり始めたのは、友達のお父さん(「商品化された教育」といった本を書いていた方)に、私の書いたものを「出版社に送りましょうか」と言われたこと、そしてブログでいろいろ書いていた時、いろんな人から褒められたことに由来する。でも、きっとそのせいではなく、何だかんだと、何を言われようと書き続けただろうと思う。
今まで、自分の書いたものを通じて、いろんな人と実際に会えて嬉しかったし、人に私は悪い影響を与えていないようだった。私は、パソコンにへばりつく現実から離れ、
現実の
人に向かい、人
の中に交じって、多くの時間を費やすべきではないか… よく、そう思う。いや、それは、それこそ架空の話だ。今、それをしていないから、そう思えるんだろう、と思う。
あまり極端に考えず、0か100かでなく、淡々と、淡々とやって行けたら!と思うのも、私が根本的にそうでない人間だからだろう。
「小説の方が、真実に近い感じがするなぁ」20年くらい前、そう言っていた友人の言葉が、よく思い出される。
自分に小説は書けそうにない。