第2話 泣ける風景

文字数 1,050文字

 電車の中で、うとうとしながら本を読んでいると、ひざ頭に犬の鼻面があたった。茶色い大きな犬が、私の足の前でおすわりをしている。
 犬は私をじっと見ていた。
 びっくりして顔を上げると、サングラスをした人が立っている。犬は主人に、「ここ、座れるよ」といっているのだ。
 そこに私が座っていた。座席はかなり空いていて、咄嗟に「あ、どうぞどうぞ」と私は横に移った。
「すいません。間違えちゃったね」と主人は言って座る。そして犬は、座った主人のスネと座席の間に、大きな体をちぢこませて、地べたに伏せの恰好になった。
 見ると、尻尾もおしりの下にちぢこませている。

 その時、なぜか私に涙が溢れ出した。あやうく、ぼろぼろ泣きそうになった。朝のがらがら電車の中、主人と盲導犬を横に、ひとりで泣くのを堪えていた。
 身体の不自由な方への同情の涙ではない。同情は、相手に対して失礼な感情だ。
 一善している自分への感動の涙でもない。目の前に何かハンディをもち、困っている人がいれば、その手伝いをさせて頂くのは当然だと思い込んで生きている。

 ── 犬が、可愛かった。こんないい犬が、なんで小さくならなければいけないのか。
 目の見えない人にとって、盲導犬は身体の一部だろう。車椅子だってそうだろう。
 しかしこれからラッシュアワーが始まる。犬に場所を取られては、人間様に迷惑なのだ。それで犬は、尻尾を尻の下に収めなければならない。
 人間様が迷惑がるのも分かる。遅刻してはならぬ、行かねばならぬところがあるのだ。好きこのんで混んだ電車になど乗りたくない。そこに犬がいれば踏みたくないし、痛い思いをさせたくないと思うだろう。

 なにかどうしようもないものに対して怒りを覚える時、身体から悲しみが湧いてくる。私の涙の根源には、〈 自分は無力である〉という意識があるように思う。
 子どもの頃、学校に行きたくなくて泣いていた。親、教師、まわりの人達は、行けと言う。私に、まわりを説得させる力などあるわけがなかった。
 年老いた両親を見て涙ぐんだ。私に、時を止める超能力などあるわけがない。
 人に迷惑をかけてきたことに涙ぐむ。こんな私と、これからも私はつきあっていくしかない。

 降りる駅に着く時、犬の顔を見た。左足にあごをあずけ、鼻面を床につけている。右足だけ、主人の足元から大きく伸びている。この駅からラッシュが始まるらしく、ホームは人で埋まっていた。
 ── これじゃ、右足が踏まれるな。
 しかし、どうしようもない。
 鼻水をすすりながら、電車を降りた。
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