第23話 茉莉と謙一は幼友達だった

文字数 2,493文字

 茉莉と高田謙一は幼友達だった。
謙一の家は茉莉の家の右隣で、謙一には父親が居なかった。謙一が小学校に入った年に交通事故で呆気無くこの世を去ってしまった。総合病院の看護師をしていた母親は、昼間は家に居なかったので、子供の頃、謙一はよく茉莉の家へ遊びに来た。半ば茉莉の家の子供のような格好で遊びに興じ、母親の帰りが遅い日には夕食を一緒に食べたりもした。二人は「茉莉ちゃん」「謙ちゃん」と呼び合う仲良しだった。
 茉莉は、ピアノのレッスンの無い日には、大概は謙一をはじめ同じ町内の近所の子供達と遊んでいたが、仲間同士で喧嘩になったりすると、茉莉はいつも謙一の味方をして、口を尖らせて相手に向かって行ったし、茉莉が年長の女の子や意地悪な男の子に虐められたりした時には、謙一が茉莉を庇って相手と闘ったりした。
 謙一は看護師の母親に女手ひとつで育てられた。
父親が居ないことで謙一が寂しがったりするのは不憫だと、気丈な母は時として父親の役割も果たしたし、男親の居ない子は駄目だと世間から後ろ指を指されることの無いように、挨拶等の礼儀作法や時間厳守、整理整頓等の躾については厳しく教え込んだ。又、読書や音楽鑑賞等で教養を深めることにも力を注いだし、野球やサッカー等の運動で身体を鍛えることにも気を配った。謙一はそんな母親に感謝したし、子供ながらにも、自分は末は一家を担う男なんだ、という気概を備えていた。温かい中にも厳しく躾けられた謙一は、誠や正義という気骨と他人を寛容し抱擁する優しさを併せ持っていた。
 
 小学六年生の夏に、謙一は母親に連れられて、初めて自宅近くの剣道場へ行った。
女手だけでは男の子を心身ともに強く鍛えるのは難しいと考えた母親は、剣道を習わせることでそれを補おうとしたのだった。
師範代に息子の見学のことを依頼して母親が先に帰った後、謙一は道場の稽古を二時間近くもの間、じっと眼を凝らして見つめ続けた。
其処では剣道衣に身を包んだ若者たちが激しく打ち合っていた。ピーンと張り詰めた厳粛な空気が流れ、若者たちの気迫がじっと見詰める謙一の身体に圧し迫まって来た。 
謙一の姿を目敏く見つけた師範代が強く入門を勧めた。
謙一は子供心にも、若者たちが張り詰めた緊張の中で裂帛の気迫を以って追い求めているものを、自分も探求してみたいと思った。自分を鍛えて、これからの生きる背骨を心の中にしっかり獲ち得たいと思った。
 謙一に稽古をつけてくれたのは木村早希と言う十八歳の高校生だった。
早希は稽古に手加減を加えることは無かった。他の塾生に対する時と同じ様に裂帛の気合と迫真の気迫を以って対峙した。 
 謙一は、最初は突き一途に教えて貰っていたが、一年もしない内に居合い抜きが出来るようになった。稽古熱心な子で、稽古の無い日には庭の立ち木を相手に突きと居合いに磨きをかけ、剣技の向上は誰もが眼を見張るほど著しかった。
「もともと相手の手が見えるタイプで、全体の動きも見渡せる能力が有るから、先が楽しみですよ」
早希が師範の先生に眼を細めてそう言った。
「早希先生の稽古が厳しくてな。俺は必死の形相で突き掛かって行ったが、何度突きを入れても唯ただ身を躱されるだけで、その度に俺は道場の床につんのめって転倒した。ふらふらになって、終わる頃には半分泣き顔で突き掛かっていたよ」
謙一は今でも偶にそう述懐することがある。

 中学生になると、男は男、女は女と、遊んだり話したりする相手が分かれて、二人が一緒に遊ぶことは急速に無くなっていった。謙一が剣道を習い始めて忙しくなったこともあって、ピアノのレッスンとビッグ・バンドの部活とで益々多忙な茉莉とは顔を合わす機会さえ殆ど無くなってしまった。
偶に、朝、登校時に自宅の門前で出くわしても、互いに素知らぬ顔をして「お早う」とも言わなかったし、茉莉はツンとした表情で謙一に背を向け、女の子達の方へ駆けて行った。茉莉も謙一も思春期になって、急に相手が他人に見え、それを何と無く意識して照れ臭くもあったし眩しくもあった。
 ある日、期末テストの前日で、午前中に授業が終わった二人が校門の前で偶然に顔を合わせた。茉莉の額や頬にニキビが出来ているのを見留めた謙一が「へえ~」という顔をすると、「嫌だ、謙ちゃん、見ないでよ」と言って、茉莉は恥ずかしそうに鞄で顔を隠した。しかし、セーラー服姿の良く似合う茉莉が急に大人っぽく見えて、偶に茉莉を見ると謙一は気持ちがどぎまぎし、妙に茉莉の存在を意識したのだった。
 
 茉莉と謙一は同じ高校に進学して、二人の距離はまた、子供の頃に縮まった。
市内で一、二を競う市立の進学校であったが、二人が通った高校では、授業はユニークなシステムで行われていた。科目ごとに学年全員が振り分けられ、生徒達は自分が受ける授業の教室へ休憩時間中に移動して、ばらばらのメンバーで授業を受けた。授業は、休憩時間中の移動を考慮して、一教科二時間単位で行われ、従って、同じクラスメイトでも全員が顔を合わせるのはホームルームの時間だけだった。茉莉と謙一は、ホームルームでは一緒にならなかったが、学科の授業ではよく顔を合わせた。二人は三年間で、現代国語、数学の微分積分、日本史、世界史、化学、漢文等で同じクラスになった。だが、茉莉も謙一も学業の成績は余り芳しくなかった。茉莉は音楽以外には興味を示さず、夢中でジャズを聴いたりビッグ・バンドの部活に明け暮れていたし、謙一も授業中に剣道の攻め手を一心不乱に考えたりして勉強に集中せず、放課後に茉莉にノートを借りて写させて貰ったりした。中間テストや期末試験になると互いの家へ押しかけて、一夜漬けで教え合ったりもした。
 高校生の茉莉は胸の膨らみが大きくなり、腰の辺りにくびれも出来て、急に身体の線が美しくなった。良く動く黒い瞳、長い黒髪を風に波打たせて颯爽と闊歩する茉莉は男子生徒の憧れの的となった。ツンと先の尖った鼻も知性的で、将にマドンナに相応しい存在であった。謙一はそんな女らしさが顕著に表れて来た茉莉を眩しく眺め、あいつがなあ~、とも思った。
 
 
 
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