第21話 茉莉、絶望して自殺を図るが・・・

文字数 1,548文字

 茉莉は絶望の内で退院した。退院には普通は幾らかでも希望が伴うものだが、茉莉は奈落の底の絶望の淵で退院した。補聴器を着けても殆ど役立たなかった。
 それでも茉莉は翌日、大学へ出てピアノのレッスンを受けて試た。
練習の課題曲を弾き始めた茉莉を教授が途中で遮った。
「君、なんだ、その演奏は?何処か身体の具合でも悪いのか?何か心配事でもあるのか?今までの君とは全然違うじゃないか!」
もしかして片耳でもそれなりに弾けないだろうか?一縷の希を抱いてやってみたけど、駄目だった。
 茉莉は茫然自失した。プロのピアニストを目指す自分の耳が機能しない、聞こえない。これほどの致命傷は無かった。昨日まで、二十一歳の青春の先に続いて在ると信じて疑わなかった明日が突然闇の中で消滅してしまった現実を、自分の中へ受入れることが出来なかった。もう少しで手の届く輝く未来がつい其処に在ったのに!
 茉莉は何をする気にもなれず、何も手につかず、誰にも会わず、鬱々と日を過ごした。
築きかけていた自らのアイデンティティが音を立てて崩れて行く絶望感とどうすることも出来ない無力感の中で、一瞬たりともその感情から抜け出すことが出来ず、茉莉は絶望の奥底で懊悩した。
 このどうにもならない感情から解き放たれたい、永続的に続くかと思われる耐えられない心の痛みから逃れたい、悲痛で空虚なこの堪えられない意識を永久に終わらせてしまいたい、茉莉の頭をふと「自殺」という二文字が駆け巡った。
自殺することが唯一の救いなのか!
だが、二十一歳の若い茉莉にはそれも出来なかった。首を吊るのも電車に飛び込むのも、服毒するのもビルから飛び降りるのも、皆全てが怖かった。怖くて足も心も竦んだ。辛うじて茉莉はリストカットに挑んだ。
茉莉は然し、あと僅かな時間でこの世から消えて無くなる、それもたった一人で、孤独のままで・・・そう思うと急に自分の孤独に戦慄し、その恐怖感に慄いた。
私はこの先、死んだ後もずうっと永遠に、この現実世界を見下ろした宇宙空間で、独り孤独に耐えながら、今と同じような状態で目覚めているのではなかろうか?それは青酸カリ入りのジュースよりひどい悪夢だわ、茉莉はそう思った。茉莉は、その悪夢の中でびっしょり冷や汗をかいてうんうん呻いている自分を想像して、気が遠くなりかけた。無限の遠方の星になって独り目覚めている恐怖を意識し、吐き気を催すほどに恐ろしい死の恐怖に、初めて押しひしがれた。この現実世界での僅か二十一年という短い生の後、何億年もずっと、意識だけは鮮明であるのに、ゼロで耐えなければならない恐怖、現実世界や宇宙は何億年も存在し続けるのに、その間ずうっと永遠にゼロであり続ける恐怖、茉莉は無限の時間の進行と永遠の自己不在を思って、恐怖に意識を失った。物理的空間の無限と無の観念とから、時間の永遠と死んだ後の自分の無の恐怖に茉莉は気絶したのだった。
 茉莉は死ねなかった。
私は死ぬことさえ出来ない!
死ぬどころか更に救い難い自失と無力の冥府魔道に堕ちて行った。
茉莉は三日三晩泣き続けた。何処にこれだけの涙が溜まっていたのだろうかと自身で思うほど涙は溢れ出して止らなかった。物心付いて四歳でピアノを習い始めてから今日まで、独りで徒手空拳で頑張って来て、一度も泣かなかった茉莉の涙が、一気に堰を切って溢れ出たのかも知れなかった。
 心身共に疲れ切って自失した茉莉は実家の母親に電話をして事情と状況を話した。
話を聞いた母親は、まあ!と言った切り電話の向こうで絶句した。が、やがて、しっかりした口調で茉莉に命じるように言った。
「今から直ぐに帰ってらっしゃい。何処へも寄らずに真直ぐに帰って来るのよ、良いわね、解ったわね」
聞いた茉莉は、わあ~っ、とその場に泣き崩れた。
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