第17話 「今日はこれからこの人の快気祝いなの」

文字数 2,612文字

 一月の中半、十五日の小正月が過ぎた大安の日だった。
「いらっしゃい!」
格子の引き戸を開けて木屋町四条の割烹店「ふじ半」に入った由香と大野の耳に、店主修二の威勢の良い明るい声が飛び込んで来た。大野は鴨居を気にしながら頭を低めて敷居を跨ぎ、後ろ手に引き戸を閉めた。
「ご無沙汰しちゃって・・・」
由香が明るい笑顔でそう言って厨房前のカウンター席に座り、大野がハーフコートを脱ぎながら彼女の隣に腰掛けた。女将の愛理が直ぐにおしぼりを二人の前に並べた。
「今日はこれからこの人の快気祝いなの」
「えっ?快気祝い、ですか?」
修二が怪訝な顔付きで訊ねた。
「ご主人の?」
「十月の初めに心臓の手術をしてね」
大野が話を引き継いだ。
「九死に一生を得て帰って来たって訳だよ」
「心臓の手術、ですか?」
「うん、まあ・・・」
「それはまた、大変だったんですね」
「知らなかったこととは言え、お見舞いにもお伺いせず、大変失礼しました」
愛理が深々と頭を垂れた。
続けて修二が言った。
「それでは、今日は私どものお二人へのご祝儀と言うことで・・・」
言い終わらないうちに由香が遮った。
「それは駄目よ!快気祝いと言うのは他人様にして戴くものでは無いわ。自分の力で生還したことを改めて自らに確認し、これからの人生の節目の指針とするように覚悟を決める、私たち二人の大事なイベントなのよ。ご厚意は有難いけど、こればかりはご遠慮するわ」
「はい・・・」
修二も愛理も貌を見合わせて頷き合った。
「それよりも・・・わたし達、今日、最初の客よね?ご主人」
「はい、おっしゃる通りですが・・・それが何か?」
「快気祝いは、大安の日に、然も一番客として、このお店でやらせて頂こう、そう二人で決めていたの、以前から」
「それは、それは・・・何と申し上げて良いやら・・・身に余る光栄です。今日は、特に、腕によりをかけて造らせて頂きます」
「で、今日のおすすめは何が良いんですか?」
「今日は鮟鱇が入っていますが・・・」
「うわぁ~、京都の冬は河豚が定番なのに、今日は鮟鱇が頂けるのね、嬉しいわ」
「それじゃ、“鮟鱇のお任せコース”を二人前、頼もうか」
大野が注文をぴしゃりと決めた。
「有難うございます。では、早速に」
鮟鱇は、海底に棲む魚で身体の八割以上が水分だと言われている。ぶよぶよしていて俎板の上でも安定しない為「吊るし切り」で下処理される。鮟鱇は身だけでなく肝なども美味で、丸ごと料理して食べられる魚である。
 最初に供されたのは鮟鱇の「刺身」と「あん肝」だった。
料理を食べる前に先ず快気祝いの乾杯が四人で行われた。
「あなた、無事に快気して、真実におめでとう!」
「ああ、有難う。君には随分と心配をかけたが、漸く全快した」
由香と大野がグラスを掲げた。
「おめでとうございます」
修二と愛理が呼応した。
「乾杯!」「乾杯!」
「では、早速に戴きましょうか」
鮟鱇の身は白く柔らかくて美味そうだった。
「吊るし切りの中で一番最後に取れるのが身の部位なんです。あん肝を肝醤油にして、漬けてお召し上がり下さい」
なるほど「超」が付くほどの美味だった。
 次に出されたのは「鮟鱇のから揚げ」だった。
食べ易い大きさに切り揃えた鮟鱇に塩胡椒とニンニクと酒で下味をつけ、十五分程置いた後、溶き卵に潜らせて片栗粉を付けて高温の油で揚げる。
「あっ、カリッと仕上がっていてとても美味しい。それにピリッとスパイシーで淡白な鮟鱇に良く合っているわ」
一口食べた由香の口元が綻んだ。
「ハイ、クレイジーソルトを加えて、百九十度の油で二度揚げさせて頂きました」
「なるほど、道理で・・・」
 大野が口にしたのは「あん肝の煮物」だった。
修二が簡略に説明した。
「あん肝は血合いなどを取り除いて綺麗に水洗いし、大きめに切り揃えます。砂糖をかけた後十分ほど置いたら簡単に水洗してキッチンペーパーで水気を拭き取ります。鍋に水、砂糖、生姜、顆粒出汁、醤油、味醂を加えて煮立たせ、其処にあん肝を入れて途中で向きを変え、十分程度煮たら完成です。どうぞ、ご賞味下さい」
「おっ、旨い!これはいける、グーだよ、グー!」
 鮟鱇の皮の「友酢」もプリプリの食べ応えで非常に美味だった。肝と酢味噌を合せたものにさっと湯通ししたコラーゲンたっぷりの皮を和えて食べる調理法で、水戸の郷土料理として有名である。
「ああ、皮と肝のハーモニーが素晴らしいわ」
由香は感嘆頻りで食べ続けた。
 鮟鱇は洋風でも食べられる。
身のしっかりした白身魚なのでソテーやフライなどの洋風料理にもピッタリ合うのである。
出て来たのは「鮟鱇のイタリア風ソテー」だった。
「えっ、鮟鱇のソテーですか?」
「ハイ、海外の英語圏ではモンクフィッシュと言う名前で売られていますよ」
鮟鱇の切り身に塩胡椒で下味を付け、薄力粉を薄くまぶしておく。フライパンにオリーブオイルを熱し、にんにくを炒めて香りが出て来たら鮟鱇をソテーする。ケッパーやオリーブを加え少量の白ワインで仕上げれば完成である。
 「鮟鱇のフライ」も美味だった。
切り身の厚さを均等に整え塩胡椒で下味を付けた鮟鱇に薄力粉をまぶして、溶き卵にくぐらせた後、パン粉を付けて高温に熱した油で揚げる。火が通ったらしっかり油を切り、皿に盛り付けて完成である。
 最後に鮟鱇の鍋料理が出て来た。鍋と言えば「どぶ汁」である。 
綺麗に処理したあん肝を鍋で軽く炒め、酒と味噌を加えつつ練るように炒って行く。そこへ食べ易い大きさに切った鮟鱇の切り身と白菜、長ネギ、椎茸などの具材を加え、出汁を入れて煮れば完成である。
由香が頬張りながら絶賛した。
「味噌の塩味とあっさりした後味で、食べ易い仕上がりね」
大野が続けた。
「うん、濃厚なあん肝と淡白だけど旨味の或る鮟鱇の身の組合せが絶品だな」
 修二が厨房に引っ込んだ間、愛理が由香に労うように訊ねた。
「春のキャンプは、もう直ぐですね?」
「ええ、あと半月ほどは有るの。それまで、家でこの人と二人でゆっくり寛ぎながら、この人の介護をするの」
「おいおい、俺は介護なんか未だ必要じゃないよ」
大野が真顔で混ぜ返して一同はにこやかに笑い合った。
外は厳寒の真冬だったが、由香と大野の心は温かく緩んでいた。
 カウンターに戻った修二が言った。
「もう直ぐ春が来て、また野球が始まるんですねぇ」
「そうよねぇ」
一同は笑顔で頷き合った。
修二の胸の中でこれまで封印して来た野球への思いが少し解けた気がした。
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