第22話 茉莉、実家へ帰る

文字数 1,582文字

 それから暫くして、大学を辞めた茉莉は、生まれ育った故里の京都へ帰った。
茉莉の実家は東京から三時間余りの京都紫野に在った。最寄りの駅で電車を降りた茉莉は、小高い丘陵地に在る実家までの道程を、逃げるように隠れるようにしてタクシーを使った。途中、繁華街の大通りを通った時には顔を俯け眼を伏せて街並みを見ようともしなかった。懐かしのジャズ喫茶「ジェニー」も眼に入らなかった。
自宅近くの十字路で車を降りた茉莉は誰にも会わぬように足早に歩を進めた。
実家は、以前と変わりなかった。小さな門扉は閉ざされていたが、低い生垣の奥には二重障子の和室が見える。門柱の上には鉢植えの花が手入れ良く飾られ、住んでいる両親の心豊かさを思わせた。
門扉をそっと押し開け、玄関の呼び鈴を押して訪いを請うた時、茉莉の胸は激しく動悸を打った。自分の生まれ育った家であるのに初めて訪れる家のように感じた。だが、出て来た母親は優しかった。
「お帰りなさい、茉莉」
そう言った切りじっと茉莉の顔を凝視したまま、一瞬動きを止めた。
五十歳近くになった母親の顔は柔和だった。髪には白いものが少し混じり、目尻にも小皺が出来ていたが、面影は三年前と少しも変わっていなかった。
じっと茉莉を見つめていた母親の顔にゆっくりと微笑が浮かんだ。
「さあさあ、何をしているの、早くお入りなさい」
茉莉は言葉が出なかった。胸の中がじい~んと熱くなった。
靴を脱ぎかけて、式台に手をかけると、茉莉は不意に玄関の土間に蹲った。迸るように眼から涙が零れ落ちた。それは悲嘆にくれる涙とは違って、何かホッとするような懐かしいような安堵するような、そんな思いが茉莉の胸に甦って突然に溢れ出た涙だった。
蹲って両手で顔を覆って嗚咽する茉莉の背中を母親が優しく抱きかかえて、居間の方へ導いた。
「私たちは家族なのよ。何が有っても心と心で繋がっているのよ。夫婦や親子の絆によって繋がっているのが家族なの。一緒に集まって食事を摂ったり旅行をしたり談笑したりしてその絆を確かめ合って来たでしょう。此処に戻り、寛ぎ、家に居ると感じることが出来る安らぎを持った場所が家庭だし、その感覚を共有しているのが家族なの。だから何日帰って来ても良いのよ」
「お前は俺たちの娘なんだ。何が有っても俺たちはお前を守ってやるぞ、な」
父親の言葉を聞いて、茉莉はもう、何一つ言えなかった。顔も上げられずに涙が又、ぽたぽたと膝の上に零れた。
 
 だが、茉莉が実家に戻っても心の傷が癒える訳ではなかった。
茉莉にはもう、こうしたい、ああしよう、という前を向いた意思はなかった。茫然自失、無気力に何をするでもなく部屋に引き篭もって日がな一日、無為に時間を過ごした。毎日毎日、来る日も来る日も、抜け殻の状態で日々を過ごした。茉莉は悲しみに打ちひしがれ、何をする気にもなれず、何をしても心は晴れなかった。茉莉はただただ哀しかった。
唯、妙に何かに刃向う逆立つ憤怒だけが茉莉の胸に滾って在った。茉莉の胸はいつも堪えられない痛みに疼いていた。乾いて干上がったり、涙が泳いでぐしょぐしょに濡れたりしていた。
 母親はそんな茉莉を心の底から心配した。
あの娘は自殺するんじゃないか、このまま閉じ篭って生きた屍同然になるんじゃないか、母親の心配は日に日に強まり深まって行った。事有る毎に茉莉の部屋を覗き茉莉の様子を窺った。
 半月ほど経った五月晴れの午後に、母親が茉莉の部屋をノックした。
「茉莉、お客様よ、出てらっしゃい」
「誰よ、別に逢いたくもないけど・・・」
茉莉は常に抑鬱神経症や不安神経症に喘いでいたので人に逢うのを億劫がった。
「隣の謙ちゃんよ。さあ、早くいらっしゃい」
隣の謙ちゃん、と聞いて、茉莉の胸に仄かな安堵感が芽生え、少し心が開いたようだった。
謙ちゃんか、もう二年も逢ってないなぁ、暫く振りに顔を見てみようか・・・
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