第54話 二人の心が一つに重なった瞬間

文字数 2,241文字

 割烹「ふじ半」の引き戸を引いて中へ入ると、女将の愛理が明るい笑顔で迎え入れた。
「いらっしゃいませ」
「予約は入れてないんですが、席は空いていますでしょうか?」
「はい、お二人様ですね、大丈夫ですよ。どうぞ、此方へ」
 導かれたのはカウンターの奥の小座敷だった。
部屋には天井からオレンジ色の照明が吊り下がっていて、和風建築の居間のような雰囲気に、宏一は安らぎと落ち着きを覚えた。
「お酒は呑みますか?」
「はい、少しなら・・・」
「じゃあ、僕は日本酒を熱燗で」
宏一が、君は何にしますか?という表情で美千代の顔を見た。
「私は白ワインのグラスを一杯だけ」
 料理はお品書きを見ながら、宏一が、えっ?という表情で指差した。
「これにしましょうか?割烹店で”うどん懐石”が食べられるなんて珍しいですからね」
お品書きには「ミニ寄せ鍋と揚げたての天ぷら盛り合わせ、人気の押し寿司、職人の技が光る新鮮なお造り、締めはつるつるしこしこの讃岐うどんで」と書かれていた。
早速に美千代が「ふじ半」自慢の「うどん懐石」二人分を注文した。
「かしこまりました」
愛理が笑顔を遺して引き下がって行った。
 宏一は改めて室内を見回した。
ケヤキを使った重量感のあるテーブルと座椅子、壁は漆喰づくり、江戸時代の雰囲気の漂う民芸調の室内・・・
「素敵な店ですね。よく来られるんですか?」
「はい、先輩の先生方や学生時代の友人達と偶に・・・でも、三、四回来た程度です」
最初に、運ばれて来た食前酒で乾杯をして、二人のディナーが始まった。
「美味しい!」
「うん、旨い!」
出て来た鉄鍋の「うどんすき」を見て宏一は驚いた。
活け締めの真鯛、地鶏、鶏だんご、豚ロースに有頭海老、山海の幸を贅沢に使った具沢山でボリュームたっぷりの品だった。とても「ミニ寄せ鍋」などと言えるものではなかった。
鍋をつつきながら美千代が訊ねた。
「お母様のその後は如何ですか?」
「えっ、母のこと、知っていたんですか?」
「はい、少しだけ・・・」
「知っていて僕と交際ってくれたんですか?」
「ええ、まあ・・・」
宏一の胸に熱いものが込み上げて来た。
「お蔭さまで大分、癒くなって来ています。親父が一生懸命に介護し、僕が家に戻り、妹が結婚を先延ばしたりして、何年振りかで一家が全員で暮らすようになって母も気持ちが落ち着いたのだと思います。やっぱり家庭というのは大事なんだとつくづく思いました」
「そうですか、それは何よりですね」
 宏一の盃が空いているのも見て、美千代が、どうぞ、と酌をした。
「わたし、この春に大学時代から親しかった友人を亡くしたんです。彼女には婚約者がいて結納も済ませ挙式の日取りも決まっていたのですが、建築技師だった相手の方が、突然、現場の事故で亡くなられたんです。彼女は泣き叫びました。身を捩って泣きに泣きました。それから、もぬけの殻になって、活力も気力も生力も無くし、自宅に引き籠ってしまいました。そして、相手の人の三回忌法要が終わった今年の春に自ら命を絶ちました。最愛の婚約者を失ったことが致命傷になったんです」
「そうですか。そんな哀しい、痛々しいことがあったんですか」
宏一は、自分のことを知ろうとしてくれた美千代に比べて、彼女のことを何も知らなかった、或は、知ろうとしなかった己を、真実に不誠実な男だ、と恥じた。
「彼女の葬儀に参列しその遺影をじっと見つめながら、私、思ったんです。私にもこれまで幾つかの恋愛経験はありました、が、別れて致命傷になるほどの人には出逢いませんでした。否、違うんです。私がそこまで、去られて致命的な痛手を受ける程にまで深く相手の人を愛してはいなかったんです。それを悟った時、もう一度、真剣に真摯に生き直さなければ、と思いました。婚活を始めたのはそれからです」
人を愛し結婚し、家族となって家庭を作り、寄り添い合い支え合って生きて行く、それにはそれなりの覚悟が要るんだ、と美千代が言っているように宏一には思われた。
テーブルナプキンを取ろうと延ばした美千代の手に、宏一は自分の掌をそっと重ねて力を込めた。
美千代は恥ずかしそうな微笑いを見せ、それから、さり気なく引いた手で耳の後ろへ髪をかき上げて熱いうどんを啜った。その姿をじっと見詰める宏一の胸に温かいものがじわ~っと拡がった。二人の心が一つに重なった瞬間だった。
 宏一は思っていた。
結婚生活って、楽しい時ばかりじゃない。うつ病になった母親を献身的に介護している親父の姿をみて、これが夫婦なんだな、結婚も良いもんだな、と思った筈なのに、結局、俺はこれまで、見た目や年齢に拘って相手を選んでいた。どんな人と結婚したら、最も幸せなのか、相手を幸せに出来るのか、互いに癒されるのか、それを一番に考えなければいけなかったのだ。
ハンドマッサージをしてくれたり、母親のことを気に懸けてくれたり、飾り気無くうどん啜ったりする美千代の姿を見て、宏一は今、彼女なら互いに大事にし合えるだろう、結婚するならこの人だ、と思った。
デートで奢られるのが当たり前、やさしくされるのが当たり前、どうしてお見合い市場に居る男性は女性を上手くエスコート出来ないのか、会話が続かないのか、そんなふうに、男性に駄目出しばかりしている美人たちに比べたら、優しさを惜しみなく与える、一生懸命に男性に尽くす、そんな美千代の姿は、実に素晴らしいものだった。
 食事の締めに出て来た讃岐うどんは、旨みの詰まった出汁が十分に浸み込んで、究極の味わいだった。
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