Envy-1
文字数 2,217文字
シギさん、と人懐っこく呼んでいた子どもの声にも、シギ、と呼び捨てるようになった低い声にも、何かを思ったことはない。疑うことを知らない無垢な瞳にも、捕食者に服従して命を預ける獲物の瞳にも、滾るような独占欲は湧かなかった。それがシュントの限界だ。同じ遺伝子、同じ顔をしているのに、フユトより僅かに華奢だというだけで、他者に阿 る安息を重視するというだけで、シュントはフユトではなかったし、フユトにはなり得なかった。自分がどう見られたいかを演出する姑息な生き物なんて、狡さも卑怯さも噛み締めながら飲み込めず己を罰するしかない生き物と比べたら、触れるのも躊躇われるほどグロテスクだ。
隻腕になり、第一線を退いたシュントは自宅に篭もりがちだと聞く。フユトだったらきっと、そうはならないと考えるたび、シュントの全てに失望していく。シュントそのものに期待していなくても、己の無力さをひけらかす姿は虫唾が走る。
「シュントに構うんじゃねェよ」
大怪我から復帰したあと、しばらくぶりに再会したフユトが、殺気を漲らせて牽制した。実の兄に向けるにしては随分と粘っこい執着に、フユトの弱さを垣間見る。それでも、この男はそれを隠すことはない。弱さを弱さと認めつつ、異様な執着を否定せず、自分の気持ちに正直に動くのだ。そんな弟に独占欲を剥き出しにされるシュントは不幸であり、ある種、幸福でもある。
「会いたいと言ってきたのはシュントなんだがな」
だから、シギはいつだって焚きつける。シュントがシギに恋焦がれていると、フユトが誤解しているうちは、プライドを刺激してやるのが一番だ。お前ごときでは不満らしい、と直接的に言わずとも、勝手に拗らせるだろうから。
シギは実際、嘘は言っていない。男娼と客、という関係自体は、シュントをハウンドに引っ張ったときに、解消するつもりだと伝えた。これからは上司と部下になるのだから、肉体関係が露見する危険性は摘んでおきたいと言ったのに、今まで通りでなくていいから、たまに会ってくれたらそれでいい、と譲歩したのはシュントだ。もちろん、シュントにしてみれば、フユトを麾下に置いたシギの本意を深読みしただけなのだろうが。
案の定、ギリ、と歯噛みするフユトに、
「精々、他を見なくて済むように繋いでおけ」
お前では稚拙すぎるのだと遠回しに告げてやる。
そうやって、フユトを刺激すればするほど、シュントに向けられる暴力が壮絶になることを知りながら、だからこそ、シギは煽るのだ。弟としても男としてもシュントを繋ぎ止めておけないなんて、誰にも言われたくないことだろうから。
あとは、シュントが音を上げて、堕ちていくのを待つばかりだ。
双子の本来の性格は、シュントのように気弱で、どちらかと言えば内向的なものだったのだろうと思う。二人きりで完結する世界を好み、浸っていたことは想像に難くない。
似た者同士だった二人を隔ててしまったのが、廃墟群での生き方の違いなのだとすれば、その発端はシギにある。双子を平等に愛していただろう母親を、唐突に奪った。運命論を信じるつもりはないものの、まるで最初から、惹かれあっていたかのような巡り合わせは、そういうものもあるのかも知れないと思ってみたくなる。例え、フユトとの邂逅が偶然の産物でも構わない。出会ってしまった以上、シギは手に入れるだけだ。
他者を害することとは無縁だった双子のハウンド適性は二分する。シュントはそもそも、暴力を厭うほうだ。力で他者を支配する気質ではない。一方、フユトの暴力への耐性と順応、衝動性の高さは、兄とは真逆だ。他者に同情を寄せるどころか叩き伏せることを好み、圧倒していたいと思っている節がある。これは恐らく、フユトが慢性的に抱える不安感の裏返しだろう。
同士討ちの形でリンチを受けて以降、双子の性格の違いは顕著になった。シュントが壮絶な暴力をトラウマとして認識するようになる一方で、フユトは積極的に実戦経験を重ねたがる。廃墟群での孤独な夜がなかったら、フユトもきっと、怯えるだけのシュントのようにいられただろうに。
目元と口元に残る殴打の痕跡に、そっと指を這わせる。
二人だけの城という密室で、シュントが何に晒されているかなんて、聞くまでもない。仕向けているのはシギ自身だ。シュントも逢瀬をやめれば解放されるだろうに、その選択だけはしたがらない。
「……無理かも知れない」
その日、シュントがぽつりと呟いた言葉に、シギは傷を撫でる手を止めた。
「もう、無理かも知れない」
青ざめた顔をして、目線を伏せたまま、シュントが遂に、堕ちた。
「フユトを壊したのは俺なのに──」
そう言って、シュントはそれきり、言葉をなくす。兄としての責任感と、加害者の悲哀と、様々な感情が入り乱れているだろう心中を推し量るように、シギも無言を貫いた。
最初から手に負えるはずもないのだ。フユトの凶暴性は今や、組織が抱えるハウンドの中でも飛び抜けている。一体どんな鬱積を抱えているのかと聞きたいくらい容赦をしない。
もし、シュントがシギの話に応じて、きっぱりと関係を断っていたなら、少しは違っていただろうか。否、シギが描く筋書きが変わっただけで、結果は同じか。
「悪いようにはしないから安心して委ねるといい」
傷つきすぎて立ち直れない、とでも言いたげなシュントの顔を覗き込んで、シギは穏やかに告げる。
「フユトも、お前もな」
隻腕になり、第一線を退いたシュントは自宅に篭もりがちだと聞く。フユトだったらきっと、そうはならないと考えるたび、シュントの全てに失望していく。シュントそのものに期待していなくても、己の無力さをひけらかす姿は虫唾が走る。
「シュントに構うんじゃねェよ」
大怪我から復帰したあと、しばらくぶりに再会したフユトが、殺気を漲らせて牽制した。実の兄に向けるにしては随分と粘っこい執着に、フユトの弱さを垣間見る。それでも、この男はそれを隠すことはない。弱さを弱さと認めつつ、異様な執着を否定せず、自分の気持ちに正直に動くのだ。そんな弟に独占欲を剥き出しにされるシュントは不幸であり、ある種、幸福でもある。
「会いたいと言ってきたのはシュントなんだがな」
だから、シギはいつだって焚きつける。シュントがシギに恋焦がれていると、フユトが誤解しているうちは、プライドを刺激してやるのが一番だ。お前ごときでは不満らしい、と直接的に言わずとも、勝手に拗らせるだろうから。
シギは実際、嘘は言っていない。男娼と客、という関係自体は、シュントをハウンドに引っ張ったときに、解消するつもりだと伝えた。これからは上司と部下になるのだから、肉体関係が露見する危険性は摘んでおきたいと言ったのに、今まで通りでなくていいから、たまに会ってくれたらそれでいい、と譲歩したのはシュントだ。もちろん、シュントにしてみれば、フユトを麾下に置いたシギの本意を深読みしただけなのだろうが。
案の定、ギリ、と歯噛みするフユトに、
「精々、他を見なくて済むように繋いでおけ」
お前では稚拙すぎるのだと遠回しに告げてやる。
そうやって、フユトを刺激すればするほど、シュントに向けられる暴力が壮絶になることを知りながら、だからこそ、シギは煽るのだ。弟としても男としてもシュントを繋ぎ止めておけないなんて、誰にも言われたくないことだろうから。
あとは、シュントが音を上げて、堕ちていくのを待つばかりだ。
双子の本来の性格は、シュントのように気弱で、どちらかと言えば内向的なものだったのだろうと思う。二人きりで完結する世界を好み、浸っていたことは想像に難くない。
似た者同士だった二人を隔ててしまったのが、廃墟群での生き方の違いなのだとすれば、その発端はシギにある。双子を平等に愛していただろう母親を、唐突に奪った。運命論を信じるつもりはないものの、まるで最初から、惹かれあっていたかのような巡り合わせは、そういうものもあるのかも知れないと思ってみたくなる。例え、フユトとの邂逅が偶然の産物でも構わない。出会ってしまった以上、シギは手に入れるだけだ。
他者を害することとは無縁だった双子のハウンド適性は二分する。シュントはそもそも、暴力を厭うほうだ。力で他者を支配する気質ではない。一方、フユトの暴力への耐性と順応、衝動性の高さは、兄とは真逆だ。他者に同情を寄せるどころか叩き伏せることを好み、圧倒していたいと思っている節がある。これは恐らく、フユトが慢性的に抱える不安感の裏返しだろう。
同士討ちの形でリンチを受けて以降、双子の性格の違いは顕著になった。シュントが壮絶な暴力をトラウマとして認識するようになる一方で、フユトは積極的に実戦経験を重ねたがる。廃墟群での孤独な夜がなかったら、フユトもきっと、怯えるだけのシュントのようにいられただろうに。
目元と口元に残る殴打の痕跡に、そっと指を這わせる。
二人だけの城という密室で、シュントが何に晒されているかなんて、聞くまでもない。仕向けているのはシギ自身だ。シュントも逢瀬をやめれば解放されるだろうに、その選択だけはしたがらない。
「……無理かも知れない」
その日、シュントがぽつりと呟いた言葉に、シギは傷を撫でる手を止めた。
「もう、無理かも知れない」
青ざめた顔をして、目線を伏せたまま、シュントが遂に、堕ちた。
「フユトを壊したのは俺なのに──」
そう言って、シュントはそれきり、言葉をなくす。兄としての責任感と、加害者の悲哀と、様々な感情が入り乱れているだろう心中を推し量るように、シギも無言を貫いた。
最初から手に負えるはずもないのだ。フユトの凶暴性は今や、組織が抱えるハウンドの中でも飛び抜けている。一体どんな鬱積を抱えているのかと聞きたいくらい容赦をしない。
もし、シュントがシギの話に応じて、きっぱりと関係を断っていたなら、少しは違っていただろうか。否、シギが描く筋書きが変わっただけで、結果は同じか。
「悪いようにはしないから安心して委ねるといい」
傷つきすぎて立ち直れない、とでも言いたげなシュントの顔を覗き込んで、シギは穏やかに告げる。
「フユトも、お前もな」
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