Epilogue-1
文字数 2,152文字
シュントが街を出る日の朝は、常に薄曇りの空に珍しく、雲の切れ間があった。遠く霞むような蒼空を見上げる、どこか寂しそうなシュントの背中を、シギは遠目から見つめる。
南方の温暖なところに、静養に向いた物件を見つけて、シュントのために用意したのは半月ばかり前だ。中古の物件だから簡単なリノベーションも済み、隻腕でも不自由ないくらいには設備も整えてある。ここまでする必要はないと、当初、シュントは申し出を断ったものの、個人ではなく組織としての落とし前だと言い切って、半ば無理やり承諾させた。
「もう俺に興味はないと思ってた」
先日、出発の手続きのために二人で会って久しぶりに抱いたあと、シュントが自嘲気味に言ったことを鮮明に覚えている。弟をもらうと宣言したのだから、シギの関心はフユトに向いたとばかり思っていたらしい。
「相変わらず酷いんだな、お前は」
そう言って、シュントは儚げに微笑った。
弟を残して街を出ると、これからは一人で生きていくと決めたシュントにとって、最後の思い出がこれだなんて、残酷なことはわかっている。それでも、その体の奥深くに爪痕を残してやりたいと思うくらいには、シギはいつの間にか、シュントにも執着していた。きっと、笑った顔が、シギの永遠の聖母に似ているのが悪い。
そんな夜の出来事を思い出していると、シュントが空港の見晴らし台から戻ってきて、シギの隣に立つ。
「もういいのか」
シュントは無言で頷いて、墨色の蛇を刻んだシギの腕を、つつ、と指先で撫でた。
「すきだよ」
微かな感触を黙って受け入れていると、シュントが呟くように告げる。
「お前は非道い奴だけど、俺より俺のことを見てくれてたのは知ってる」
そして、自嘲するように笑って、
「煮え切らない俺が嫌いなことも知ってる」
言ってから、縋るような眼差しを向けてきた。
「フユトを頼む」
裏切るな、と言うように、シュントの指に力が籠った。他愛のない指切りなんかよりも重い約束だ。今のシュントに偽りはない。弟のためなら茨の道を歩いて往ける、芯の強い兄の目だ。
「……こうならない道もあったと思わないのか」
答える前に、シギは尋ねてみた。策を練って誘導したのは間違いないけれど、双子の関係が歪んでいなかったら、きっとここまで上手くはいかなかっただろうと思う。責めてもらって構わない、そんなつもりで口にした問いに、シュントはきょとんと瞬いて、呆れたように苦笑する。
「らしくないな」
そう、らしくない。生まれてこの方、罪悪感らしきものを持った覚えがないのに、どうして聞いてしまったのだろう。
人の心は竹を割ったようにはできていない。双子が相手のためを思って深く傷つけ合ったように、シギもまた、嫌悪として、シュントに関心を抱いている。
しかし、嫌悪しているのは自分を欺くシュントであって、再会したばかりの頃のような、打算のないシュントは別だ。
矛盾だらけで一貫性のない斑模様。白と黒とグレーで終わらない多彩。面倒なものを抱えてしまったと、シギは内心で思いながら、いつも通りに右の口角だけで嗤う。
「きっと殺し合ってたよ」
そんなシギに、シュントも吹っ切れたように答えた。
「同じだから分かり合えない、同じだから同じ道を選ぶ」
二人きりの箱庭で、誰にも知られず事切れる双子を思い描いて、それはそれで悪くない、と思う。刺し違えるほどの愛が、憎悪が、相反するようで似ている激情が、二人を蝕んで壊す、今とはまた別の未来。
救い出したわけじゃない。むしろ、真逆の地獄へ突き落とした。強欲で傲慢な魔物に飼われて、双子が本当に幸福なのかは知る由もないが、二人きりの破滅のほうが傷は浅いのかも知れなかった。
「それでも、たまには俺を気にしてくれると嬉しいけど」
本音を噛み殺した切ない笑顔で、シュントが言った。だから、正直に答えることにした。
「フユトを逃がすつもりはない」
いつもは凪いでいる瞳の奥に、きっと、妖しく情念が揺らめいているだろうと自覚しながら、シュントを真っ直ぐ見つめる。彼には向けなかった根深い執着を醜く剥き出して。
「殺してでも傍に置く」
この街には珍しく、陽光に照らされて遠ざかる飛翼を見送る。貸し切りのチャーター便で、シュントはどんな顔をするだろう。未練を浮かべるだろうか、清々しい顔で雲海を見下ろすだろうか。
そんな細かいことはどうでもいい。
支配者が後部座席に乗り込むのを、バックミラーで確認した大男が意味深な視線を寄越す。無を貫く表情に何を読み取ろうとしているのか、声を掛けるべきかどうかを迷う素振りで、視線を脇に逸らした。
「出せ」
端的に命じる。人間らしい情など微塵もない声だ。壮年の秘書は何も言葉にせず、一息つくように嘆息して、車のエンジンをかけた。
フユトは実に、半年は粘った。
半年後、仕事を寄越せと不機嫌に催促するようになってからは、フユトの内側の崩壊は早かった。シュントが街を出て以降の、仕事と酒と暴力に依存した生き様は、フユトが切羽詰まっている何よりの証左だったし、視界に入るなだの目つきが気に入らないだの、同業者に取り留めもない難癖を付けるようになり、喧嘩やリンチが増えてからは、手が付けられないくらい凶暴だと、これまでの噂に尾鰭がついた。
南方の温暖なところに、静養に向いた物件を見つけて、シュントのために用意したのは半月ばかり前だ。中古の物件だから簡単なリノベーションも済み、隻腕でも不自由ないくらいには設備も整えてある。ここまでする必要はないと、当初、シュントは申し出を断ったものの、個人ではなく組織としての落とし前だと言い切って、半ば無理やり承諾させた。
「もう俺に興味はないと思ってた」
先日、出発の手続きのために二人で会って久しぶりに抱いたあと、シュントが自嘲気味に言ったことを鮮明に覚えている。弟をもらうと宣言したのだから、シギの関心はフユトに向いたとばかり思っていたらしい。
「相変わらず酷いんだな、お前は」
そう言って、シュントは儚げに微笑った。
弟を残して街を出ると、これからは一人で生きていくと決めたシュントにとって、最後の思い出がこれだなんて、残酷なことはわかっている。それでも、その体の奥深くに爪痕を残してやりたいと思うくらいには、シギはいつの間にか、シュントにも執着していた。きっと、笑った顔が、シギの永遠の聖母に似ているのが悪い。
そんな夜の出来事を思い出していると、シュントが空港の見晴らし台から戻ってきて、シギの隣に立つ。
「もういいのか」
シュントは無言で頷いて、墨色の蛇を刻んだシギの腕を、つつ、と指先で撫でた。
「すきだよ」
微かな感触を黙って受け入れていると、シュントが呟くように告げる。
「お前は非道い奴だけど、俺より俺のことを見てくれてたのは知ってる」
そして、自嘲するように笑って、
「煮え切らない俺が嫌いなことも知ってる」
言ってから、縋るような眼差しを向けてきた。
「フユトを頼む」
裏切るな、と言うように、シュントの指に力が籠った。他愛のない指切りなんかよりも重い約束だ。今のシュントに偽りはない。弟のためなら茨の道を歩いて往ける、芯の強い兄の目だ。
「……こうならない道もあったと思わないのか」
答える前に、シギは尋ねてみた。策を練って誘導したのは間違いないけれど、双子の関係が歪んでいなかったら、きっとここまで上手くはいかなかっただろうと思う。責めてもらって構わない、そんなつもりで口にした問いに、シュントはきょとんと瞬いて、呆れたように苦笑する。
「らしくないな」
そう、らしくない。生まれてこの方、罪悪感らしきものを持った覚えがないのに、どうして聞いてしまったのだろう。
人の心は竹を割ったようにはできていない。双子が相手のためを思って深く傷つけ合ったように、シギもまた、嫌悪として、シュントに関心を抱いている。
しかし、嫌悪しているのは自分を欺くシュントであって、再会したばかりの頃のような、打算のないシュントは別だ。
矛盾だらけで一貫性のない斑模様。白と黒とグレーで終わらない多彩。面倒なものを抱えてしまったと、シギは内心で思いながら、いつも通りに右の口角だけで嗤う。
「きっと殺し合ってたよ」
そんなシギに、シュントも吹っ切れたように答えた。
「同じだから分かり合えない、同じだから同じ道を選ぶ」
二人きりの箱庭で、誰にも知られず事切れる双子を思い描いて、それはそれで悪くない、と思う。刺し違えるほどの愛が、憎悪が、相反するようで似ている激情が、二人を蝕んで壊す、今とはまた別の未来。
救い出したわけじゃない。むしろ、真逆の地獄へ突き落とした。強欲で傲慢な魔物に飼われて、双子が本当に幸福なのかは知る由もないが、二人きりの破滅のほうが傷は浅いのかも知れなかった。
「それでも、たまには俺を気にしてくれると嬉しいけど」
本音を噛み殺した切ない笑顔で、シュントが言った。だから、正直に答えることにした。
「フユトを逃がすつもりはない」
いつもは凪いでいる瞳の奥に、きっと、妖しく情念が揺らめいているだろうと自覚しながら、シュントを真っ直ぐ見つめる。彼には向けなかった根深い執着を醜く剥き出して。
「殺してでも傍に置く」
この街には珍しく、陽光に照らされて遠ざかる飛翼を見送る。貸し切りのチャーター便で、シュントはどんな顔をするだろう。未練を浮かべるだろうか、清々しい顔で雲海を見下ろすだろうか。
そんな細かいことはどうでもいい。
支配者が後部座席に乗り込むのを、バックミラーで確認した大男が意味深な視線を寄越す。無を貫く表情に何を読み取ろうとしているのか、声を掛けるべきかどうかを迷う素振りで、視線を脇に逸らした。
「出せ」
端的に命じる。人間らしい情など微塵もない声だ。壮年の秘書は何も言葉にせず、一息つくように嘆息して、車のエンジンをかけた。
フユトは実に、半年は粘った。
半年後、仕事を寄越せと不機嫌に催促するようになってからは、フユトの内側の崩壊は早かった。シュントが街を出て以降の、仕事と酒と暴力に依存した生き様は、フユトが切羽詰まっている何よりの証左だったし、視界に入るなだの目つきが気に入らないだの、同業者に取り留めもない難癖を付けるようになり、喧嘩やリンチが増えてからは、手が付けられないくらい凶暴だと、これまでの噂に尾鰭がついた。
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