ACT10 「天使君の正体」

文字数 2,564文字

 わたしは今、筋肉痛とたたかっている。脚立を上ったり下りたりするだけでも、この体には激しい運動なのだ。名づけて脚立運動。あいたたた。

「サクさん、なんだか体の動きが不自然ですよ。大丈夫ですか」

 天使君の心配そうな声を聞きながら、たしったしっと今日も脚立をよじ登る。痛いけどくじけるもんか。

「大丈夫。きっとその内なおるから」
「おまえ、ロボットみたいになってるぞ」

 笑うな、バカ兄貴。かくっかくっとぎこちない動きで、ようやく屋台の上側にある描画ポイントに到着。

「バランスを崩して、屋台の上から落ちたりするなよ。気をつけるんだぞ、もうサク画伯の体は一人のモノじゃないんだから」

 一人のモノだよ。気持ち悪いことをいうな。

「あやまって兄貴の上にペンキの缶をぶちまけてしまうかもしれないね」
「お?それがサク画伯のアートなら兄ちゃんはつきあうぞ」

 皮肉もつうじないとは、さすがわが道を行く変人。

「サクさん、気をつけてくださいね」
「うん、ありがとう。天使君」

「こら、おまえあきらかに兄ちゃんの時と反応が違うぞ」
「兄貴は自業自得。こっちのことはいいから、タコ焼きでも焼いていてください」

「しょんぼり」

 兄貴はすごすごと引きさがった。天使君に声をかけて屋台の作業に入ったので、わたしも刷毛を握りしめる。
 ちらりと視線を向けると、今日も黒い日傘のストーカーさんがいつもの場所でこちらを見守っていた。何事もなかったかのような様子だ。

 ああ、もやもやする。あの日、黒い日傘のストーカーさんと話したことは、兄貴にも天使君にも言っていない。
 どうせ兄貴に聞いても天界の追手だとか言いだすだけだ。話がおかしくなるのがわかっている。何も覚えていない天使君には聞きにくいし。
 わからないことだらけだ。考えるだけ無駄かな。

 ぺたぺた、がしがしとペンキぬりに集中。今日も良い天気だ。木陰で作業しているとはいえ、暑い。すぐに喉が渇く。
 あ、しまった。お茶のペットボトルを下に置いたままだ。また脚立運動をしなければ。ぎぐしゃくと屋台の上から脚立に向かう。

 いたた。筋肉痛が――と。
 あ、まずいと思ったときには遅かった。いつものように足がでず、脚立を蹴ってしまう。体重移動の修正が間にあわない。

「ぎゃっ」

 落ちる。
 がしゃん、どてっ、ぼきっ。倒れていく脚立と共に見事に転落。

「大丈夫ですか?サクさん」

 すぐに耳元で声がする。覚悟していた衝撃もない。体を起こして周りを見ると、天使君に馬乗り状態。
 ぎゃあ。

「ご、ごめん。天使君」

 あわてて飛びおりると、視界にはさらにショッキングな映像が。

「うわあああぁ」

 天使君の腕がおかしい。倒れた脚立に挟まれた腕が、ありえない角度に曲がっている。

「ててててて、天使君。腕、腕がぁ」
「大丈夫です、サクさん」
「う、動いちゃ駄目だよ。すぐに、すぐに救急車」

 あわてるわたしの前で、天使君は平然と体を起こした。兄貴も何事かとやってくる。

「どうした?――ゼ、ゼロ、おまえ、腕が」

 天使君の腕。腕が――。
 腰が抜けた。その場にぺたりと尻餅をついてしまう。
 何それ、ありえない。

「サクさん、大丈夫ですか」

 天使君は立ちあがって、もげかけた左腕を気にもとめず歩み寄ってくる。

「や、やだ」

 思わず声をあげると、天使君がぴたりと立ち止まった。ようやくもげかけた自分の腕を見る。

「――あ……」

 ばちばちと傷口から青白い火花が散っていた。
 機械の露出した腕。
 血管のかわりにのぞくのは数え切れないコード。
 緻密な内部
 見てはいけないものを見てしまった。そう思っているのに、目をそらすことができない。
 天使君がはっとしたように、腰からさげていたタオルで腕を隠した。

「――僕は……」

 うな垂れたようにうつむく天使君。ふたたび顔をあげると、泣きそうな顔で笑おうとする。

「サクさん、僕は人間ではありません。ごめんなさい」

 まるで存在していることを丸ごと懺悔するように詫びて、天使君は踵を返した。
 走りだす。

「あ、違う、わたし――」
「おいっ、ゼロ!」

 一瞬の出来事だった。すぐに天使君の姿を見失ってしまった。
 天使君の声。頭の中をぐるぐる回る。

――僕は人間ではありません。サクさん、ごめんなさい。

 ふり絞るように、ふるえた声。
 謝ることなんて、何一つない。助けてくれたのだ。
 なのに。どうしてわたしは。
 どうしてわたしは恐れてしまったのだろう。
 機械の腕を見ただけで、どうして。

 天使君は天使君なのに、何も変わらないのに。
 あの一瞬、わたしは天使君のこと否定してしまったのだ。ありえないと。
 天使君を傷つけてしまった。わたしのせいだ。

「サク、泣くなよ」

 だって、だって。天使君はすごく哀しそうな目をしていた。

「びっくりしたのはわかるけどさ」

 違う。兄貴のバカ。どうしてわたしの気持ちがわからないのだ。この変人。
 そもそも、どうして。

「ろうしれ、ありきは追いかけらいんらよ。ずびっ」
「サク、兄ちゃんにはおまえが何を言っているのかわからない」

 どうして兄貴はそんなに平然としているのだ。どうして天使君を追いかけないのだ。 もう、このバカ。役立たず。

「ふ、うえ」

 バカバカ、このバカ、わたしのバカ。
 ぜんぶ、わたしが悪い。泣いている場合じゃないのに、追いかけなきゃいけないのに。
 腰を抜かしている場合じゃない。わたしの役立たず。

「サク、とにかく落ちつけ。暴れるな。おまえが何をしたいのか兄ちゃんには全くわからないぞ。こらこら、這うな。おい、匍匐前進(ほふくぜんしん)をするなというのに」

 だって、天使君は何も悪くない。
 悪いのはわたしなのだ。

「ほら、サク。タコ焼きを食って落ちつけ」

 落ちつけるわけないだろ、このバカ兄貴。
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