ACT01 「変人とわたし」

文字数 2,866文字

「だから、もしもの話だって言ってるだろ。その目つきやめろよ。拗ねるな拗ねるな。そんなことくらいで」

「兄貴は今、わたしの人格を思いきり否定した」
「してないだろうが」

 短く刈った頭髪を、兄貴はバリバリと手でかいた。このひと夏で、兄貴はすっかり日に焼けている。わたしよりも色白だった肌が、嘘みたいに溌剌とした小麦色に変わっていた。

 これ以上兄貴と会話していても仕方がないので、わたしは手に持っていたスケッチブックを開く。はじめのページには描きかけの屋台。

「おおー、相変わらずうまいな、おまえ。どうして芸大とか受けなかったわけ?」
「絵を描くときは、独りでいいもん」

 兄貴は宇宙人でも見るような目をしてわたしを見る。なんだ、その顔は。

「だって、そこにある物を描くしかできないんだ。そんなのは、少し器用な人なら誰でも描ける。自慢できるようなものじゃないよ」

「いやいやいや、違うぞ。兄ちゃんなんか、そこにある物すらそんなふうには描けないぞ」

 天は兄貴に多くの物を与えたようだったが、絵心は与えなかった。
 たとえばチューリップを描くと、恐怖の食虫植物。
 犬を描いても、顔は人間になっている。キリンなんて、黒い縦縞が入った囚人服を着たオジサンになっていた。なぜ黒い頭髪まで存在していたのか。わけがわからない。はじめは受け狙いかと思っていたが、本人は大真面目だった。
 同じ腹から生まれながら、わたしと兄貴は得意分野が綺麗に逆転している。

「暇つぶしだもん。これで食べていけるわけじゃないし」
「せめて大学でそれ系のサークルとか入ってみれば?」
「いらないよ」

 わたしは見たままの輪郭を描きだすことは得意だ。けれど、描きあがった絵には温かみがない。他愛ない写真の方が、よほど撮った人の特徴が現れるのではないかと思えるくらいに、淡々としていた。

 ゆったりとまどろみたくなるような風景を求めているのに、わたしの心を投影して出来上がった光景は、いつも寂しかった。

 無感動な絵。注目されるような個性もない。
 わたしは人様にそんな無個性な自分をさらすのが嫌なのだ。けれど、個性をもってふるまう勇気もない。結果として、わたしの周りに築かれた世界も、味気のないものになってしまった。

 きっと、わたしの周りにある世界が味気ないから、そんな絵しか描けないのだ。

「兄ちゃんはおまえの絵、すごいと思うんだけどなぁ」

 絵心のない兄貴は素直に褒めてくれる。ふっと優しい気持ちがわいた。同時に、兄貴が羨ましくて仕方がない。

 兄貴は、自分の中にモノサシのある人だ。
 それは世間や常識や、流行などに左右されない。いつでも自分の見ているありのままの風景を美しいと言える人。周囲の意見によって、モノサシの単位が変わることはない。

 そんなふうに自分を信じていられたら、誰かと、何かと、自分を比べてみて傷つくこともないだろう。
 どんなに幸せだろうか。考えるだけでうっとりとするくらい、満ちた世界。

「その画力を人に自慢してみようとか思わないわけか」
「だから、自慢できるようなシロモノじゃないってば」
「いや、できるだろ」

 兄貴は隣で「もったいない、もったいない」とまるで念仏のように唱えている。しつこい。耳障りだ。

「せっかくだから、屋台に絵を描いてくれよ。とびきり奇抜なやつ」
「そんなの無理」

 兄貴を羨ましいと思っていることは秘密にしておこう。周りに振り回されない心は、著しく周りと調和していないことも多い。
 だから、わたしの目から見て兄貴は変人なのである。

「しかし、おまえが両親のはなった密偵ではないとなると」

 いきなり話を戻して、兄貴は嫌な笑い方をしながらこちらを見た。

「狙いは何だ? もしかして……」
「絵を描きに来ているだけです」

「嘘だろ。絵を描く時は独りでいいって言ってたぞ、今さっき、ついさっき」
「わたしは独りでひっそりと屋台を描きたいんだけど」

 ああ、苛々する。この変人が何を言いたいのか手に取るようにわかってしまう。そして、わかってしまう自分が嫌だ。血のつながりのなせる技か。

 いや、違うな。兄貴の顔にありありと浮かび上がっているのだ。きっとこの有様なら誰でも読み解くことができるだろう。
 奴はここから、とんでもないラブロマンスでも期待しているに違いない。

「おまえ、本当は彼氏との待ち合わせで、毎日ここで時間つぶしでもしているんだろう? なぁなぁ、そうなんだろう?」

 ここまでマイペースだと人生は本当に楽しいだろうな、このバカ兄貴。

「何なの? そのランランと輝いた眼差しは。言っとくけど、兄貴、自分に色恋沙汰がないからって、妹を肴に盛りあがろうとするのはやめた方がいいよ。兄貴がとても哀れに見えるから」

 兄貴は再び胸を押さえて身をよじり、今度は「ザクザクッ、ぐはぁ」とうめいた。

「言葉が突きささる。おまえって、血の色緑星人だろう」
「毛虫じゃあるまいし」

「つめたっ。その口調、つめたっ」
「うるさいな、もうっ」

「いいからさ、兄ちゃんにもおまえのいい人を紹介してくれよ。タコ焼き、おごるぞ」
「いらない」

「えー? おいしいのに」

 わたしはなかばヤケクソになって、スケッチブックの上で動かす手に力をこめた。線が太く濃くゆがむ。

「わたしさ、ふられたの。元カレは今頃、わたしの友達とデートでもしてるよ」

 なげやりに真実を教えてやると、兄貴はぽかんとした顔で突っ立っている。
 そのまま一秒、二秒、三秒。ピクリとも身動きをせず、沈黙が続く。
 何だろう、この反応は。
 兄貴ってばそんなに静止画像のように固まって、呼吸しているのだろうか。

「ちょっと、兄貴――……」
「ぶはぁっ」

 突然、止まっていた時間が流れだしたように兄貴は息をする。腰に手をあてて、全力疾走でもしたみたいに、ぜーはー言っている。本当に呼吸を止めていたみたいだ。
 さすが変人、真剣にバカじゃないだろうか。

「兄ちゃんが悪かった」

 呆れてモノが言えなくなっている妹の沈黙をどう受け取ったのか、兄貴はバリバリと頭をかきながら詫びる。

「タコ焼き、食うか?」

 どうやら兄貴にとっては、失恋した妹にたいして、それが精一杯のはげましなのだろう。思わずぷっと吹きだしてしまう。実は全然落ちこんでいなかったのだけど、何となく兄貴の気遣いが心地よくて、ひととき悲劇のヒロインを演じてみることにした。

「それは兄貴のおごりなの?」
「おうっ、もちろんだぞ」
「じゃあ、食べる」

 兄貴は「よしっ」と言って、ふたたび屋台に戻る。
 鉄板に流しこまれた生地が、じゅうじゅうと景気よく音をたてた。
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