ACT00 「変人とタコ焼き」

文字数 2,898文字

「ありがとうございましたっ」

 元気よく変人の声が聞こえてくる。八つ年上の兄貴(あにき)だ。
 白い歯をみせて、お客様の背中を見おくっている。
 頭にはねじりハチマキ。真っ赤なTシャツの胸には、らくがきのタコ。わたしが開店祝いに悪ふざけで描いたらくがきだ。そう、兄貴はタコ焼き屋なのである。

 ワンボックスの車を見事に改装して、屋台ができあがっていた。あちらこちらを走り回って、兄貴は屋台をだす場所をみつけてくる。
 最近は緑地公園のかたすみ。不法なのか許可をもらっているのか、わたしは知らない。

「兄貴さぁ。これで儲かってるの?」
「兄ちゃんは、自分が楽しむためにやってるだけなの。儲けは二の次なの」

 ぐりぐりと鉄板に油をぬりながら、鼻歌をうたいだす。
 兄貴のこの転職にはいまだに理解がおよばない。本人はすごく楽しそうだけど、やっぱり変人だと思う。

「おまえ、いつもそこで見てるなら、少しは手伝ってくれてもいいだろうが。大学の文系なんて、どうせ暇だろ」
「暑苦しいから、やだ」
「顔にソースぬるぞ」

 ソースだらけのハケを至近距離に持ってくるな、このバカ兄貴。
 兄貴のこの転職のおかけで、うちの両親がどれだけ悲嘆に暮れたのか、わかっているのだろうか。
 そもそもの事の発端は、去年の春。

 とある研究所に勤めていた兄貴が、ゴールデンウィークに帰省した。ひどく真面目くさった顔をして、両親に話があると言いだしたのだ。

「俺、仕事を辞めてきた」

 その場にいた一同、目が点。幸か不幸か、わたしもその場に居合わせた。両親もわたしも、はじめは冗談だと笑いとばした。

「だから、冗談じゃないから」

 しかし、兄貴は本気だったのだ。あの時、その場を満たした不気味な沈黙。今もよく覚えている。と言うか、忘れられるわけがない。
 彼のかたる今後の展開は、もう素晴らしいくらいに荒唐無稽で、みるみる両親の顔色が変わっていくのが滑稽だった。

 父、激怒。母、号泣。

 もちろん、わたしもうろたえた。けれど、頭のどこかで、ちらりといつかこうなるのではないかと言う予感がしていた。

 なぜかって、兄貴は我が家の突然変異だったからだ。いわゆる天才である。
 どうしてこんなに平凡な家に、兄貴のような非凡な人が生まれたのか不思議だ。
 兄貴は高校のときも、大学のときも首席の座に君臨していた。

 常に一番。一番に愛された人間。

 学生の頃から、なんとか学会の偉い人に呼ばれたとか。海外のどこそこの大学や、ごたいそうな機関に招待されたとか。教授の研究室で実験に参加して過ごしたとか。普通ではありえない経験を積んでいたようだ。

 詳しいことがわからないわたしにも兄貴のすごさはガンガン響いてきた。
 おまえは神様の子供かと、つっこみたくなるくらいだ。
 だけど、やっぱりそんな奇蹟が長く続くわけがなかった。
 いわゆる、アレですね。天才とバカは紙一重という、典型。
 兄貴もやっぱり、人の子だったわけである。

「サク、おまえさぁ」

 お客様の姿がなくなると、兄貴は狭い屋台からでてきた。今は八月だ。真夏のぎらぎらした陽射しが世界を支配している。熱した鉄板を前にして、兄貴は汗だくになっていた。タコ焼き屋を始めたのは五月のはじめ、ゴールデンウィークだった。ちょうど三ヶ月が過ぎたところだろうか。

 研究所を辞めてから、兄貴はタコ焼きのお店でバイトをしたり、必要な資格を取ったりと、経験値を積んできた。

 その間にわたしも晴れて大学生になってしまった。タコ焼きの屋台を持つなんて冗談だと思っていたのに、こうして現実になっているあたり。
 兄貴は本気だったのだと、思わずしみじみしてしまう。その行動力だけは、素直に尊敬できる。

「俺が屋台はじめてから、毎日サクの顔を見てるんだけど」
「浮かれている兄貴を見てるの、面白いんだもん」

「悪趣味。そして暇人。たまには彼氏とか友達とか、ぱーっとつれて来いよ」
「彼女のいない人間に言われたくない」

「ぐさっ」

 ダメージをくらったという勢いで、兄貴が胸に手を当てる。
 天才だと謳われていた兄貴。こんなふうに公園の一角で、汗をだらだらかきながら妹の言葉に傷ついているなんておかしな感じ。

 もっと子どもの頃は、お兄ちゃんと呼んで背中を追いかけていたけれど。
 兄貴がタコ焼き屋をはじめてから、幸いなことに思い出を一つ取り戻した。
 八つも年上だから、幼いわたしにとって兄貴はとても偉大だった。こう見えても、わたしはお兄ちゃん大好きっ子だったから、相手をしてほしくて常に後をついて行ったものだ。兄貴はトコトコとひな鳥のようについて来る妹を可愛がってくれた。

 それは考えてみると、両親が青ざめる位に乱暴な所業の数々だったのだけど、兄貴は妹を抱きかかえて、屈託の無い顔で笑っていた。

 懐かしい思い出は、きっとすでに美化されているだろう。それでも、兄貴は変わっていなかったのだ。わたしは屋台に立つ兄貴が、昔と同じ笑顔をしているのを見て、悪い気がしない。
 天才の兄貴はひたすら遠かった。家族なのに、まるで知らない人のように手が届かなかったのだ。

 いつからか、わたしはお兄ちゃんの背中を追いかけてゆくことができなくなっていた。兄貴の見ている世界を同じように見ることができなかった。

 もちろん、できすぎた兄貴に対する嫉妬とか、ひがみとか、そう言ううっとうしい思いに支配されたこともある。血の通った人間なので、もやもやと愛憎がひしめいてしまうのは仕方がない。
 だけど、そんなことよりも、本当は身近にいたお兄ちゃんが知らない誰かになっていくことが哀しかったのだ。

 兄貴の周りに築かれていく世界が羨ましく、また誇りであったのに。
 ひとりで先に、わたしの知らない世界へと巣立って行くお兄ちゃん。主が不在になった兄貴の部屋を見ると、ぽっかりとして切なくなったものだ。

 だから、わたしはこの突拍子もない兄貴の転職が嫌ではない。ただもう幼い子どもではないので理解には苦しむし、俗にまみれた妹ですから、もったいないとは思うのだけど。
 約束された将来を捨てたと、兄貴を軽蔑する気にはなれなかった。
 そもそも兄貴の人生は兄貴のものだ。人様に迷惑をかけていなければ、問題はないと思うし。

「もしもの話だけどさ。おまえ、実は親父達に頼まれて、俺の様子を見に来てるとかってこと、ないよな」

 兄貴はやはりとんでもない世間知らずではないのだろう。自由奔放にふるまっていても、変人でも、天才でも、両親のことを気遣っているあたりに親しみが持てる。
 しかし、それと妹をスパイのように言うのは話が違うのだ。失礼だ。

 思いきり軽蔑(けいべつ)眼差(まなざ)しをおくってやると、兄貴は慌てたようにつけたした。
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