ACT04 「天使君の事情」
文字数 1,849文字
兄貴のアパートに入るのは、これが二度目だった。引越しの手伝いに借りだされたとき以来だ。家賃の安さで選んだという古いアパート。部屋の鍵は天使君が持っていた。
兄貴の手伝いをするために持たされているのだろうか。おかげで締めだしをくらわずにすんだ。
喜ぶわたしを置き去りに、天使君は扉をあけると「どうぞ」と手を差しのべる。
「あ、どうも」
あれ? まるで天使君の部屋に案内されたような違和感。
「サクさん、冷たいお茶はいかがですか。お腹はすいていませんか」
天使君はわたしの予想を裏付けるように、慣れた足取りで台所にたつ。六畳の和室が二部屋しかない間取り。狭いけれど整理整頓されていて掃除も行き届いている。兄貴の仕業であるはずがない。
「もしかして天使君、兄貴とここで同居しているとか?」
「はい、そうです」
明快な答え。
氷のはいったグラスに麦茶を入れて、天使君が差しだす。わたしは受け取るとぐびぐびと一気に飲みほした。
「サクさん、喉が渇いていたのですね。おかわり入れましょうか」
「や、いい。もういいよ」
わたしはふうと大きく息をつく。
「天使君はいつから兄貴と同居しているの?」
「いつから……、そうですね。――気がついたら、ここにいました」
あの、天使君。それではまったく答えになっていませんが。
「えと、じゃあ、まず天使君の名前を教えてください。兄貴はゼロって呼んでいるみたいだけど」
まさかそれが本名じゃないだろう。しかし、天使君は何を言われたのかわからないという顔できょとんとしている。あれ?
「まさか、ゼロって愛称じゃなくて、本当に名前?」
「リョウさんがそう呼ぶので、そうだと思います」
いや、変人がどう呼ぶかは全く関係ないのだけど。
「そうじゃなくて、じゃあ――フルネームは?」
「フルネーム……、ゼロだと思います」
話が前に進まない。
「いや、あの、えーと」
どこか会話がかみ合わないな。もしかして変人に何か吹きこまれているのだろうか。
「ひょっとして、バカ兄貴のたくらみ?」
「どういうことですか」
それはこちらが聞きたい。埒があかないので質問を変えよう。
「ここに来る前はどこに住んでいたの? 実家は? 天使君の両親は知ってるの?」
天使君はあきらかに困った顔をした。まさか家出とかじゃないよね。
「僕には両親がいません」
わ、一気に話が重たくなった。
「ここに来る前のことは、よくわかりません」
さらに記憶喪失の可能性まででてきた。
「えーと、えー……」
天使君が嘘をついているとは、どうしても思えない。
気になることは山ほどあるけど、興味本位にあれこれと聞けなくなる。何をどう尋ねればいいのだろうか。
「じゃあ、兄貴とはどこで知り合ったの?」
「この部屋です」
またもや予想外の答えだった。思わず兄貴の帰宅はまだかと時計を見てしまう。今の一連のやりとりを組み立ててみると。
何かの事情で記憶喪失になった天使君を兄貴が拾って、成り行きで面倒をみている。警察に届けたが、そんな捜索願いはでておらず、だから天使君は両親がいないと思いこんでいる。
わたしの頭ではこれが精一杯の推測だ。どちらにしても天使君の抱えている事情は複雑そうだった。兄貴が天使君に教えたという敵のことも、追求する気が失せていた。
開けてはいけない扉を開けてしまったような、何ともいえない後味の悪さがある。
天使君はそんな自分の境遇を嘆くこともなく、いつもの美しいほほ笑みを浮かべたままこちらを見ている。だけど、今はその素直な笑顔が痛々しい。沈黙が息苦しくて、だくだくと変な汗がでてきた。
「サクさん、気分でも悪いのですか」
「う、ううん。違うよ。……ただ、なんとなく先行きが不安というか」
「不安? これからは僕がサクさんの力になります。力になれることがあったら言ってくださいね」
身を乗り出すようにして、天使君は真摯な眼差しを向けてくる。
どこまでも純心な天使君。非常識なくらい無垢なのは、何も覚えていないからだろうか。
「いや、わたしは大丈夫だから。今のはなしの方向で。兄貴が帰ってくるまで、テレビでも見ていようか」
「はい」
とにかく今は兄貴の帰宅を待つしかない。
兄貴の手伝いをするために持たされているのだろうか。おかげで締めだしをくらわずにすんだ。
喜ぶわたしを置き去りに、天使君は扉をあけると「どうぞ」と手を差しのべる。
「あ、どうも」
あれ? まるで天使君の部屋に案内されたような違和感。
「サクさん、冷たいお茶はいかがですか。お腹はすいていませんか」
天使君はわたしの予想を裏付けるように、慣れた足取りで台所にたつ。六畳の和室が二部屋しかない間取り。狭いけれど整理整頓されていて掃除も行き届いている。兄貴の仕業であるはずがない。
「もしかして天使君、兄貴とここで同居しているとか?」
「はい、そうです」
明快な答え。
氷のはいったグラスに麦茶を入れて、天使君が差しだす。わたしは受け取るとぐびぐびと一気に飲みほした。
「サクさん、喉が渇いていたのですね。おかわり入れましょうか」
「や、いい。もういいよ」
わたしはふうと大きく息をつく。
「天使君はいつから兄貴と同居しているの?」
「いつから……、そうですね。――気がついたら、ここにいました」
あの、天使君。それではまったく答えになっていませんが。
「えと、じゃあ、まず天使君の名前を教えてください。兄貴はゼロって呼んでいるみたいだけど」
まさかそれが本名じゃないだろう。しかし、天使君は何を言われたのかわからないという顔できょとんとしている。あれ?
「まさか、ゼロって愛称じゃなくて、本当に名前?」
「リョウさんがそう呼ぶので、そうだと思います」
いや、変人がどう呼ぶかは全く関係ないのだけど。
「そうじゃなくて、じゃあ――フルネームは?」
「フルネーム……、ゼロだと思います」
話が前に進まない。
「いや、あの、えーと」
どこか会話がかみ合わないな。もしかして変人に何か吹きこまれているのだろうか。
「ひょっとして、バカ兄貴のたくらみ?」
「どういうことですか」
それはこちらが聞きたい。埒があかないので質問を変えよう。
「ここに来る前はどこに住んでいたの? 実家は? 天使君の両親は知ってるの?」
天使君はあきらかに困った顔をした。まさか家出とかじゃないよね。
「僕には両親がいません」
わ、一気に話が重たくなった。
「ここに来る前のことは、よくわかりません」
さらに記憶喪失の可能性まででてきた。
「えーと、えー……」
天使君が嘘をついているとは、どうしても思えない。
気になることは山ほどあるけど、興味本位にあれこれと聞けなくなる。何をどう尋ねればいいのだろうか。
「じゃあ、兄貴とはどこで知り合ったの?」
「この部屋です」
またもや予想外の答えだった。思わず兄貴の帰宅はまだかと時計を見てしまう。今の一連のやりとりを組み立ててみると。
何かの事情で記憶喪失になった天使君を兄貴が拾って、成り行きで面倒をみている。警察に届けたが、そんな捜索願いはでておらず、だから天使君は両親がいないと思いこんでいる。
わたしの頭ではこれが精一杯の推測だ。どちらにしても天使君の抱えている事情は複雑そうだった。兄貴が天使君に教えたという敵のことも、追求する気が失せていた。
開けてはいけない扉を開けてしまったような、何ともいえない後味の悪さがある。
天使君はそんな自分の境遇を嘆くこともなく、いつもの美しいほほ笑みを浮かべたままこちらを見ている。だけど、今はその素直な笑顔が痛々しい。沈黙が息苦しくて、だくだくと変な汗がでてきた。
「サクさん、気分でも悪いのですか」
「う、ううん。違うよ。……ただ、なんとなく先行きが不安というか」
「不安? これからは僕がサクさんの力になります。力になれることがあったら言ってくださいね」
身を乗り出すようにして、天使君は真摯な眼差しを向けてくる。
どこまでも純心な天使君。非常識なくらい無垢なのは、何も覚えていないからだろうか。
「いや、わたしは大丈夫だから。今のはなしの方向で。兄貴が帰ってくるまで、テレビでも見ていようか」
「はい」
とにかく今は兄貴の帰宅を待つしかない。