ACT15 「第零研究所にて」
文字数 2,486文字
天使君のいる研究所には、一時間足らずでついた。
車をおりた途端、兄貴は猛烈なダッシュで建物に入っていった。後を追おうとしたわたしを、司馬井さんがとめる。
「サクさんは、こちらから」
あ、そうか。部外者のわたしが兄貴と同じようにふるまえるわけがない。
研究施設は窓のすくない病院といった印象だ。ずっしりと白い建物がたち並んでいる。
「もし天使君がすべて忘れてしまったら、試用実験も終わりですか」
天使君がわたしのことを忘れてしまったら、もう一緒にいる意味もないけれど。
同じ顔で知らないと言われることには、きっと耐えられない。
司馬井さんは、白い通路を進みながらふりかえる。
「それは、わかりません」
「そう、ですか」
もし天使君が、わたしのことを忘れてしまったら。
どうしよう。わたしはどうしたらいいのだろう。
「大丈夫ですよ、サクさん。久遠博士が何とかなさるはずです」
本当にあの変人に任せていても大丈夫なのだろうか。余計に不安だ。
「では、こちらでお待ちください」
通路を突き当たりまで進んだところでストップ。目の前にはぶあついメタリックの扉。司馬井さんが手続きをする前に、呆気なくメタリックの扉が真ん中から開く。
「サク、はやくはやく」
何の緊張感もなく変人が飛びだしてきた。
「ゼロが待ってるぞ」
じゃあ、天使君は無事に目覚めたのだろうか。兄貴はわたしの腕をつかんだまま、子どものように走りだす。事情を話す時間も惜しいという勢いだ。
わたしも一刻もはやく天使君に会いたい。
目覚めてくれたのなら、わたしは天使君に謝ることができる。良かったという気持ちでいっぱいになりながら、いくつかの扉をくぐって広い部屋に入った。
真ん中に寝台のような大きな装置がある。白衣の人たちに囲まれて横たわっている人影は、まちがいなく天使君だ。
「サク、ゼロは兄ちゃんがどんなに手を尽くしても起きてくれない。きっとおまえの一声で目覚めてくれる」
「は?」
天使君が待っているって、そういう意味だったのか。じゃあ、天使君はまだ目覚めていないということになる。
「ゼロはきっとおまえを待っているんだ」
わたしは横たわる天使君を見つめたまま、呆然としてしまう。
「ちょっと待って、兄貴。本当にわたしが呼んだら起きてくれるの?」
「それしか考えられない。名づけて眠りの森の王子大作戦だ」
あ、アホだ。信じられない。
「そんな作戦、成功するわけがないだろうが。バカ兄貴、この変人」
一体この男はどこまでアホなんだ。そんな思いつきで天使君が起きるわけがないだろうが。
変人が手を尽くしてもどうにもならないものが、わたしの一声でどうにかなるわけがない。
じわぁっと、視界がにじむ。
もう天使君に会うことはできないのだろうか。わたしはこのままリセットされてしまうのだろうか。
「く、久遠博士。彼女の声で、ゼロに反応が――」
「おおっ」と白衣の人達からどよめきが起きる。兄貴が、がしっとわたしの肩をつかんでぐらぐらと揺さぶった。
「泣いている場合か、サク。はやくゼロを起こしてやれ。おまえを待っているんだ」
わたしはぼやけた視界で横たわる天使君を見つめた。
ふらふらと吸い寄せられるように、一歩一歩、寝台に歩みよる。
本当に?
本当に天使君はわたしのことを待っているのだろうか。
呼べば、目覚めてくれるのだろうか。
「天使君」
勇気をだして、呼びかける。
「天使君、起きて。わたし、声が聞きたい」
膝をついて、寝台に身を寄せる。こんなに近くに天使君がいるのに、こちらを向いてくれない。
「天使君」
いまだ大怪我をしたままの天使君の腕に両手を重ねた。ぽつぽつと涙が落ちる。
「ごめんね。――天使君はわたしと同じだよ。何も変わらない」
心がある。とても温かい想いが。そしてその想いで、わたしを鮮やかな世界に連れだしてくれた。
「――天使君、起きてよ」
目を醒ましてほしい。
ひたすら腕を握って、強く祈るしかできない。
やがて。
ふわりと風が動いた。
辺りのどよめきが大きくなって、すぐに遠ざかる。
頭に触れる、優しい気配。
「サクさん」
声。聞きなれた、天使君の声だ。
「天使君っ」
夢中で腕を伸ばした。力の限りしがみつく。
「良かった、良かったよぅ」
「サクさんの声が聞こえました」
「ごめんね、天使君。ごめんなさい。わたしを庇って大怪我したのに、――ごめんね」
みっともないのがわかっていても、どうにもならない。止まらない。天使君にしがみついたまま、わんわん大泣きをする。
良かった、本当に良かった。
「ゼロ。こういう時はそっと抱きしめてやるんだ」
背後から兄貴がつまらないことを吹きこんでいる。天使君は腕を回して、ゆっくりと力をこめた。
あれ?
うっとりと浸るまもなく、抱擁がとてつもない圧力に変わる。
「久遠博士、ゼロは損傷箇所の影響で、力の制御が――」
ちょっと待って、天使君。く、くるしい。抱きしめてくれるのは嬉しいけど、力加減がおかしい。
「ま、まずい。ゼロ、サクをはなせ。あ、バカ、おまえ……」
く、苦しい。死ぬ。このままではわたし、天使君に抱きつぶされるかもしれない。
絶体絶命。
あ、あ、あ。
――ボキッ。
こうして、感動の再会は余韻に浸るまもなく終了した。
わたしは肋骨が折れて、全治二ヶ月の重傷である。
どうやら、このまま非日常は続くらしい。
天使君の絵も屋台の絵も、まだ完成していないのに。
あーあ、今年の夏が終わってしまう。
天使君とわたしの恋は、前途多難だ。
「天使君と変人とわたし」 END
車をおりた途端、兄貴は猛烈なダッシュで建物に入っていった。後を追おうとしたわたしを、司馬井さんがとめる。
「サクさんは、こちらから」
あ、そうか。部外者のわたしが兄貴と同じようにふるまえるわけがない。
研究施設は窓のすくない病院といった印象だ。ずっしりと白い建物がたち並んでいる。
「もし天使君がすべて忘れてしまったら、試用実験も終わりですか」
天使君がわたしのことを忘れてしまったら、もう一緒にいる意味もないけれど。
同じ顔で知らないと言われることには、きっと耐えられない。
司馬井さんは、白い通路を進みながらふりかえる。
「それは、わかりません」
「そう、ですか」
もし天使君が、わたしのことを忘れてしまったら。
どうしよう。わたしはどうしたらいいのだろう。
「大丈夫ですよ、サクさん。久遠博士が何とかなさるはずです」
本当にあの変人に任せていても大丈夫なのだろうか。余計に不安だ。
「では、こちらでお待ちください」
通路を突き当たりまで進んだところでストップ。目の前にはぶあついメタリックの扉。司馬井さんが手続きをする前に、呆気なくメタリックの扉が真ん中から開く。
「サク、はやくはやく」
何の緊張感もなく変人が飛びだしてきた。
「ゼロが待ってるぞ」
じゃあ、天使君は無事に目覚めたのだろうか。兄貴はわたしの腕をつかんだまま、子どものように走りだす。事情を話す時間も惜しいという勢いだ。
わたしも一刻もはやく天使君に会いたい。
目覚めてくれたのなら、わたしは天使君に謝ることができる。良かったという気持ちでいっぱいになりながら、いくつかの扉をくぐって広い部屋に入った。
真ん中に寝台のような大きな装置がある。白衣の人たちに囲まれて横たわっている人影は、まちがいなく天使君だ。
「サク、ゼロは兄ちゃんがどんなに手を尽くしても起きてくれない。きっとおまえの一声で目覚めてくれる」
「は?」
天使君が待っているって、そういう意味だったのか。じゃあ、天使君はまだ目覚めていないということになる。
「ゼロはきっとおまえを待っているんだ」
わたしは横たわる天使君を見つめたまま、呆然としてしまう。
「ちょっと待って、兄貴。本当にわたしが呼んだら起きてくれるの?」
「それしか考えられない。名づけて眠りの森の王子大作戦だ」
あ、アホだ。信じられない。
「そんな作戦、成功するわけがないだろうが。バカ兄貴、この変人」
一体この男はどこまでアホなんだ。そんな思いつきで天使君が起きるわけがないだろうが。
変人が手を尽くしてもどうにもならないものが、わたしの一声でどうにかなるわけがない。
じわぁっと、視界がにじむ。
もう天使君に会うことはできないのだろうか。わたしはこのままリセットされてしまうのだろうか。
「く、久遠博士。彼女の声で、ゼロに反応が――」
「おおっ」と白衣の人達からどよめきが起きる。兄貴が、がしっとわたしの肩をつかんでぐらぐらと揺さぶった。
「泣いている場合か、サク。はやくゼロを起こしてやれ。おまえを待っているんだ」
わたしはぼやけた視界で横たわる天使君を見つめた。
ふらふらと吸い寄せられるように、一歩一歩、寝台に歩みよる。
本当に?
本当に天使君はわたしのことを待っているのだろうか。
呼べば、目覚めてくれるのだろうか。
「天使君」
勇気をだして、呼びかける。
「天使君、起きて。わたし、声が聞きたい」
膝をついて、寝台に身を寄せる。こんなに近くに天使君がいるのに、こちらを向いてくれない。
「天使君」
いまだ大怪我をしたままの天使君の腕に両手を重ねた。ぽつぽつと涙が落ちる。
「ごめんね。――天使君はわたしと同じだよ。何も変わらない」
心がある。とても温かい想いが。そしてその想いで、わたしを鮮やかな世界に連れだしてくれた。
「――天使君、起きてよ」
目を醒ましてほしい。
ひたすら腕を握って、強く祈るしかできない。
やがて。
ふわりと風が動いた。
辺りのどよめきが大きくなって、すぐに遠ざかる。
頭に触れる、優しい気配。
「サクさん」
声。聞きなれた、天使君の声だ。
「天使君っ」
夢中で腕を伸ばした。力の限りしがみつく。
「良かった、良かったよぅ」
「サクさんの声が聞こえました」
「ごめんね、天使君。ごめんなさい。わたしを庇って大怪我したのに、――ごめんね」
みっともないのがわかっていても、どうにもならない。止まらない。天使君にしがみついたまま、わんわん大泣きをする。
良かった、本当に良かった。
「ゼロ。こういう時はそっと抱きしめてやるんだ」
背後から兄貴がつまらないことを吹きこんでいる。天使君は腕を回して、ゆっくりと力をこめた。
あれ?
うっとりと浸るまもなく、抱擁がとてつもない圧力に変わる。
「久遠博士、ゼロは損傷箇所の影響で、力の制御が――」
ちょっと待って、天使君。く、くるしい。抱きしめてくれるのは嬉しいけど、力加減がおかしい。
「ま、まずい。ゼロ、サクをはなせ。あ、バカ、おまえ……」
く、苦しい。死ぬ。このままではわたし、天使君に抱きつぶされるかもしれない。
絶体絶命。
あ、あ、あ。
――ボキッ。
こうして、感動の再会は余韻に浸るまもなく終了した。
わたしは肋骨が折れて、全治二ヶ月の重傷である。
どうやら、このまま非日常は続くらしい。
天使君の絵も屋台の絵も、まだ完成していないのに。
あーあ、今年の夏が終わってしまう。
天使君とわたしの恋は、前途多難だ。
「天使君と変人とわたし」 END