ACT09 「黒い日傘のストーカーさん」
文字数 3,133文字
どうしてこんなことになってしまったのか、よくわからない。
天使君とペンキの缶を運びながら、てくてくと公園までの道程を歩いていた。
「ごめんね、天使君。重いでしょ」
天使君は大きな脚立とペンキのはいった缶を六つも抱えている。わたしの荷物はペンキの缶が二つだけ。
「これくらい荷物のうちに入りません。もっと持てますよ」
にっこりと嬉しそうな天使君の笑顔。見ているとこっちまで笑顔になる。
「サクさんが屋台に絵を描いてくれるのですから、ペンキなんていくらでも運びます。僕はとても楽しみです」
「期待に添えるものが描けるか、わからないけど」
「サクさんの絵は素敵です」
応援しますと言いたげに、天使君が目を輝かせる。また恥ずかしくなってきた。だけど、天使君に言われると大げさな褒め言葉も嬉しい。不思議だ。
どうやら夏休みに入ってから、わたしはかなり天使君に影響されている。
ついに屋台にペンキで絵を描くことになってしまった。
天使君に望まれると、どうもいけない。期待にこたえたくなってしまうのだ。天使君をつうじて兄貴に使われている気がしないでもない。釈然としないのはそのせいだろうか。影で兄貴がほくそ笑んでいるような気がして、それだけが腹立たしい。
「僕の絵はすすんでいますか」
人懐こい天使君に、すっかりわたしもなじんでしまった。
「もし必要なら、僕はいつでもサクさんの前でポーズをとりますよ」
「大丈夫だよ。もう構図も決まったし順調にすすんでる」
天使君の絵は何枚もスケッチをして、ようやく下書きが完成した。色目は水彩色鉛筆とパステルを選んで塗りはじめている。彩色に入ってからは、全て自宅での作業だ。
でき上がるまでの過程は秘めておきたかった。完成してから天使君に全貌を見てもらいたかったのだ。驚いてくれるかな。
「できたら、一番に天使君に見てもらう」
「本当ですか」
ああ、この顔に弱い。天使君が笑ってくれると、こたえたくなってしまう。
公園に到着すると兄貴が大きく手をふった。
「ついにサク画伯が本気になってくれた。兄ちゃんのこの喜びがわかるか?」
「わかりたくない」
「今日は記念日だ」
人の話を聞けというのに。兄貴は興奮しすぎだ。
刷毛や筆、色とりどりのペンキに脚立など、屋台の周りは雑然としている。はじめての経験なので何が必要なのかもよくわからない。
とりあえず天使君と何往復もして色々なものを運んだ。屋台に絵を描く準備は整ったと言える。
「さて、じゃあ始めようかな」
「ステキ。サク画伯、カッコイイ」
兄貴が「ひゅーひゅー」と独りで騒いでいる。変人は無視しておこう。
わたしは大きな刷毛をどっぷりとペンキに突っ込んだ。屋台には誰もお客様が来ないので、兄貴と天使君がじっとこちらを見ている。なんか、やりにくい。
「じっと見られていると、描きにくいんだけど」
「せっかくの歴史的瞬間だぞ」
「描くのやめるぞ」
「じゃあ、はじめの一筆だけ、な」
兄貴が顔の前で両手をあわせる。本当に全てが大げさな男だ。仕方がない。
べったりとペンキのついた刷毛を、思い切って屋台に滑らせた。兄貴と天使君が背後で「おおー」と声をあげている。
「はい、観賞はここまで」
「え―?」
「描くのやめるぞ」
兄貴は未練がましい顔をしたまま、とぼとぼと鉄板の前に戻った。天使君も慌てて兄貴についていく。わたしは脚立をつかって屋台の上に乗った。木陰に停められていても、手をついた車体があたたかい。
「ゼロ。悪いけど買い出し頼む。これがメモ」
「はい」
わたしがペンキを使った大胆な作業にとりかかっていると、天使君が「いってきます」と手をふって姿を消した。
「おい、サク」
地上から兄貴の声。
「ん?なに?」
わたしは屋台の上で手を動かしたまま返事。
「兄ちゃんもちょっと買い出しに行ってくる。屋台には不在の張り紙をしてあるから」
「わかった」
兄貴も公園から姿をけした。独りぼっちだが作業がはかどりそうだ。わたしはべたべたと車の上をぬりすすめて行く。脚立を上がったり下りたり、どこまで体力が続くのか謎だ。
「あの、少しよろしいでしょうか」
作業に没頭していると、突然下からお呼びがかかった。したたる汗をぬぐいながら振りかえると、黒い日傘がくるくると回っている。青白い顔をした女の人がこちらを仰いでいた。
げ。黒い日傘のストーカーさん。どうしてわたしに声をかけるのだ。タコ焼きなら、張り紙を見てあきらめてほしい。
「あ、すいません。今は店のものが不在で、タコ焼きが焼けないんです」
「いいえ、タコ焼きを買いに来たわけではありません」
じゃあ、いったい何なのだ。もしかして、天使君と荷物を運んでいたことに嫉妬でもされたとか?
まずい。変な汗がでてきた。
「あなたに少しお聞きしたいことがあるのです」
うわぁ、わたし大ピンチ。どうしよう、どうしよう。
「良かったら、そこから降りてきていただけませんか」
降りたくない。降りたくないけれど、降りるしかない。地面に降りると、黒い日傘のストーカーさんが歩み寄ってきた。
「ごめんなさいね。作業中に」
「え、いえ」
こわくて相手の顔を見られない。
「心配しなくてもお時間はとらせません。一つだけうかがいたいのです」
黒い日傘のストーカーさん、声は穏やかだ。おそるおそる顔をあげると、大きな瞳がこちらを見ている。凛とした立ち姿。年上の美女。目が合うと、ふわりとほほ笑んでくれた。
どうやら嫉妬に駆られているわけではないようだ。
黒い日傘のストーカーさんは、真っ白なハンカチで額の汗をぬぐう。か弱そうな細い体。今にも倒れるんじゃないだろうか。
「わたしに、何を?」
「はい。ゼロはうまく馴染んでいるでしょうか」
「は?」
何を言われたのかわからない。
「どうしても心配で様子を見に来てしまうのですが、彼は人様にご迷惑をかけたりしていないでしょうか」
この人は何者だ。もしかして天使君のお母さんなのか。それにしては若すぎるけど。
「あの、天使君の知り合いですか」
黒い日傘のストーカーさんは、唇の前に人差し指をたてた。
「ごめんなさい。それは秘密です」
話が前にすすまない。最近、不可解なことが多すぎる。唐突に兄貴の作り話を思い出してしまった。
天使君は天使様、黒い日傘のストーカーさんは天界の追手説。
「ゼロは人様にご迷惑をかけたりしていないでしょうか」
だけど、黒い日傘のストーカーさんは、まるでお母さんのような口ぶりである。
意味がわからない。
「やっぱり、なにかご迷惑をおかけしていますか」
むっとした。その言い方はないと思う。天使君はあんなに良い人なのに。
「天使君は誰にも迷惑なんてかけていません。とても礼儀正しいです」
思わず答えると、黒い日傘のストーカーさんはほほ笑んだ。
「そうですか。ありがとう。お時間をとらせてごめんなさい」
呆気ないほど潔く、黒い日傘のストーカーさんは立ち去った。呆然と後姿を見おくっていると、ふと黒い日傘がふりかえる。
「タコ焼き、おいしかったとお伝えください」
悪い人ではなさそうだ。だけど、得体が知れない。不可解だ。
天使君とペンキの缶を運びながら、てくてくと公園までの道程を歩いていた。
「ごめんね、天使君。重いでしょ」
天使君は大きな脚立とペンキのはいった缶を六つも抱えている。わたしの荷物はペンキの缶が二つだけ。
「これくらい荷物のうちに入りません。もっと持てますよ」
にっこりと嬉しそうな天使君の笑顔。見ているとこっちまで笑顔になる。
「サクさんが屋台に絵を描いてくれるのですから、ペンキなんていくらでも運びます。僕はとても楽しみです」
「期待に添えるものが描けるか、わからないけど」
「サクさんの絵は素敵です」
応援しますと言いたげに、天使君が目を輝かせる。また恥ずかしくなってきた。だけど、天使君に言われると大げさな褒め言葉も嬉しい。不思議だ。
どうやら夏休みに入ってから、わたしはかなり天使君に影響されている。
ついに屋台にペンキで絵を描くことになってしまった。
天使君に望まれると、どうもいけない。期待にこたえたくなってしまうのだ。天使君をつうじて兄貴に使われている気がしないでもない。釈然としないのはそのせいだろうか。影で兄貴がほくそ笑んでいるような気がして、それだけが腹立たしい。
「僕の絵はすすんでいますか」
人懐こい天使君に、すっかりわたしもなじんでしまった。
「もし必要なら、僕はいつでもサクさんの前でポーズをとりますよ」
「大丈夫だよ。もう構図も決まったし順調にすすんでる」
天使君の絵は何枚もスケッチをして、ようやく下書きが完成した。色目は水彩色鉛筆とパステルを選んで塗りはじめている。彩色に入ってからは、全て自宅での作業だ。
でき上がるまでの過程は秘めておきたかった。完成してから天使君に全貌を見てもらいたかったのだ。驚いてくれるかな。
「できたら、一番に天使君に見てもらう」
「本当ですか」
ああ、この顔に弱い。天使君が笑ってくれると、こたえたくなってしまう。
公園に到着すると兄貴が大きく手をふった。
「ついにサク画伯が本気になってくれた。兄ちゃんのこの喜びがわかるか?」
「わかりたくない」
「今日は記念日だ」
人の話を聞けというのに。兄貴は興奮しすぎだ。
刷毛や筆、色とりどりのペンキに脚立など、屋台の周りは雑然としている。はじめての経験なので何が必要なのかもよくわからない。
とりあえず天使君と何往復もして色々なものを運んだ。屋台に絵を描く準備は整ったと言える。
「さて、じゃあ始めようかな」
「ステキ。サク画伯、カッコイイ」
兄貴が「ひゅーひゅー」と独りで騒いでいる。変人は無視しておこう。
わたしは大きな刷毛をどっぷりとペンキに突っ込んだ。屋台には誰もお客様が来ないので、兄貴と天使君がじっとこちらを見ている。なんか、やりにくい。
「じっと見られていると、描きにくいんだけど」
「せっかくの歴史的瞬間だぞ」
「描くのやめるぞ」
「じゃあ、はじめの一筆だけ、な」
兄貴が顔の前で両手をあわせる。本当に全てが大げさな男だ。仕方がない。
べったりとペンキのついた刷毛を、思い切って屋台に滑らせた。兄貴と天使君が背後で「おおー」と声をあげている。
「はい、観賞はここまで」
「え―?」
「描くのやめるぞ」
兄貴は未練がましい顔をしたまま、とぼとぼと鉄板の前に戻った。天使君も慌てて兄貴についていく。わたしは脚立をつかって屋台の上に乗った。木陰に停められていても、手をついた車体があたたかい。
「ゼロ。悪いけど買い出し頼む。これがメモ」
「はい」
わたしがペンキを使った大胆な作業にとりかかっていると、天使君が「いってきます」と手をふって姿を消した。
「おい、サク」
地上から兄貴の声。
「ん?なに?」
わたしは屋台の上で手を動かしたまま返事。
「兄ちゃんもちょっと買い出しに行ってくる。屋台には不在の張り紙をしてあるから」
「わかった」
兄貴も公園から姿をけした。独りぼっちだが作業がはかどりそうだ。わたしはべたべたと車の上をぬりすすめて行く。脚立を上がったり下りたり、どこまで体力が続くのか謎だ。
「あの、少しよろしいでしょうか」
作業に没頭していると、突然下からお呼びがかかった。したたる汗をぬぐいながら振りかえると、黒い日傘がくるくると回っている。青白い顔をした女の人がこちらを仰いでいた。
げ。黒い日傘のストーカーさん。どうしてわたしに声をかけるのだ。タコ焼きなら、張り紙を見てあきらめてほしい。
「あ、すいません。今は店のものが不在で、タコ焼きが焼けないんです」
「いいえ、タコ焼きを買いに来たわけではありません」
じゃあ、いったい何なのだ。もしかして、天使君と荷物を運んでいたことに嫉妬でもされたとか?
まずい。変な汗がでてきた。
「あなたに少しお聞きしたいことがあるのです」
うわぁ、わたし大ピンチ。どうしよう、どうしよう。
「良かったら、そこから降りてきていただけませんか」
降りたくない。降りたくないけれど、降りるしかない。地面に降りると、黒い日傘のストーカーさんが歩み寄ってきた。
「ごめんなさいね。作業中に」
「え、いえ」
こわくて相手の顔を見られない。
「心配しなくてもお時間はとらせません。一つだけうかがいたいのです」
黒い日傘のストーカーさん、声は穏やかだ。おそるおそる顔をあげると、大きな瞳がこちらを見ている。凛とした立ち姿。年上の美女。目が合うと、ふわりとほほ笑んでくれた。
どうやら嫉妬に駆られているわけではないようだ。
黒い日傘のストーカーさんは、真っ白なハンカチで額の汗をぬぐう。か弱そうな細い体。今にも倒れるんじゃないだろうか。
「わたしに、何を?」
「はい。ゼロはうまく馴染んでいるでしょうか」
「は?」
何を言われたのかわからない。
「どうしても心配で様子を見に来てしまうのですが、彼は人様にご迷惑をかけたりしていないでしょうか」
この人は何者だ。もしかして天使君のお母さんなのか。それにしては若すぎるけど。
「あの、天使君の知り合いですか」
黒い日傘のストーカーさんは、唇の前に人差し指をたてた。
「ごめんなさい。それは秘密です」
話が前にすすまない。最近、不可解なことが多すぎる。唐突に兄貴の作り話を思い出してしまった。
天使君は天使様、黒い日傘のストーカーさんは天界の追手説。
「ゼロは人様にご迷惑をかけたりしていないでしょうか」
だけど、黒い日傘のストーカーさんは、まるでお母さんのような口ぶりである。
意味がわからない。
「やっぱり、なにかご迷惑をおかけしていますか」
むっとした。その言い方はないと思う。天使君はあんなに良い人なのに。
「天使君は誰にも迷惑なんてかけていません。とても礼儀正しいです」
思わず答えると、黒い日傘のストーカーさんはほほ笑んだ。
「そうですか。ありがとう。お時間をとらせてごめんなさい」
呆気ないほど潔く、黒い日傘のストーカーさんは立ち去った。呆然と後姿を見おくっていると、ふと黒い日傘がふりかえる。
「タコ焼き、おいしかったとお伝えください」
悪い人ではなさそうだ。だけど、得体が知れない。不可解だ。