ACT14 「リセットボタン消滅」
文字数 2,544文字
アパートの前に止められていた車に乗って、すぐに天使君の処へ向かう。
すでに落ちつきを取り戻したのか、隣の兄貴がちらちらとこちらを見ている。
車の後部座席。まるでソファにかけているような心地。
だけど、心理的に快適なドライブとは言えない。
天使君にわたしのことをリセットしてほしくないのだ。
忘れてほしくない。
「兄ちゃん、ちょっと不思議に思ったことがあるんだけど、聞いてもいいか?」
黙っていると最悪のことばかり考えてしまう。今は兄貴の相手をするのも悪くない。
「なに?」
「おまえ、前にさ。自分の中にリセットボタンがあるって言っていたよな」
「――うん」
いまさら何だろう。天使君のリセットボタンとは次元が違う。
「だけど、ゼロに自分のことをリセットされるのは哀しいのか?」
「わたしと天使君のリセットボタンは違うでしょ」
変人は天才のくせにそんなこともわからないのか。
「そうかな、兄ちゃんは一緒だと思うけどなぁ」
「どこが?」
「だって、人間関係が蓄積されていかない。人を好きになるという気持ちがわからない。サクはそう言っていたぞ」
「それで?」
「人間にそんなことありえるのか? 兄ちゃんそれ聞いたとき、すごくショックだった。サクは昔、兄ちゃんの後をついて回って、素直で、メチャクチャ可愛かったんだぞ」
突然昔話とは。まったくもって脈絡が感じられない。
「それが、そんな拗ねたことを言うんだもんな」
拗ねていて悪かったな。どうせわたしはひねくれているよ。
「感情が化学反応だとかいう人に言われたくないけど」
「ううむ。――でも、よく考えたらサクがひねくれたのは兄ちゃんのせいかなと」
「は?」
「感情が単なる化学反応だということは、ずっと昔から思っていたな。ただ、それが過程(プロセス)を経て変化することは、ゼロの研究で考えはじめたんだ」
「それでわたしがひねくれたのは自分のせい? まったく意味がわかりません」
「うむ。ではわかるように話してやろう。要するに昔の兄ちゃんは、喜怒哀楽は一過性の化学反応だと思っていたんだ。だから、人に辛く当たっても、それはその時だけの反応だって考えていた。今となっては恐ろしいくらい幼稚な考えだ。だけど、そんな幼稚な考えで、兄ちゃんはサクを突きはなしたことがあった」
とくりと、深いところに紛れていた思い出が呼応する。予想外の展開に、思わず兄貴を見た。
「サクが中学くらいの頃かな。言い訳すると、兄ちゃんは周りが騒々しくなりはじめて、毎日苛々していたんだな。それでサクにやつあたりだ。ものすごく冷たい態度をとっていた時期があった。どうせサクが泣いても、一過性の反応だと思っていたし。最低なことにその時、兄ちゃんは心も痛まなかった。サクにも心当たりがあるだろ?」
「――うん、まぁ」
たしかに心当たりがある。
手を伸ばしても届かなくなった背中。いつのまにか兄貴の後姿を追いかけることを諦めた。
知らない誰かになっていくお兄ちゃん。置いていかれたような気持ち。
そう、ずっと当時の印象は暗い思い出の中にあった。
「だから、サクが自分の中にリセットボタンがあると言った時、サクの人を好きになるという化学反応を、兄ちゃんがあの時にとめてしまったのかもしれない。そう思ったんだな」
遠ざかっていた何かが、急に近づいてくるような錯覚がする。
兄貴は変人のくせに、心の深いところを見抜いていた。
「兄ちゃんは、変化はしても、人への思いがリセットされるなんていうことはないと思う。そういうの、すごくさびしいと思うし、サクがそうだったら哀しいなぁ。今ならサクもわかるんじゃないか?ゼロにリセットされることが、ものすごく哀しいんだろ?」
「――うん」
いまさら昔のことを掘り返すなんてずるいぞ、バカ兄貴。
ふたたび、じわりと視界がゆがむ。ぼたぼたと涙がこぼれた。
天使君。
かけがえのない存在。もうごまかしようもない。
わたしの中で止まっていた化学反応は、少しずつ反応をはじめていた。
天使君と出会って、少しずつ世界が動きはじめていたのだ。
ずっと心に痣があった。慕っていたお兄ちゃんに突き放された衝撃が残っている。とてつもなく哀しかったのだ。とつぜん変わってしまった世界。
それから、わたしは化学反応することをやめてしまった。
唐突に形の変わる気持ち、うつろう世界が恐かった。
頑なに心を閉ざしていた。自分が傷つかないように。
元カレにも友達にも。誰に対しても、どんな時も。
無彩色の世界。
この夏休み、天使君と過ごすようになるまで、ずっと閉ざされた世界をさまよっていた。
だけど、今ならわかる。
恐れていてはわからない。心を閉じていては。
化学反応しなければわからないのだ。開かれた世界が鮮やかなこと。
すべて天使君が教えてくれた。
自分の中にリセットボタンがあるなんて嘘だ。だって、わたしは天使君のことをリセットなんてできない。忘れられない。忘れてほしくない。
「それでさぁ、サク。質問なんだけど」
「なに?」
まだ何かあるのか。ずびっと鼻をすする。
「おまえ、ゼロのことを好きになっちゃったとか?」
「へ?」
変人の一番聞きたかったことはそれか。顔が思いきりラブロマンスを期待している。
「ゼロに恋が芽生えちゃったんじゃないのか?」
恋。天使君。
とつぜん、かぁっと全身がほてった。
「やっぱりか? やっぱりそうなのか?」
何も言い返せない。顔があつい。のぼせる。兄貴の笑い声が聞こえた。
「サクは鈍感だなぁ」
変人に言われて気付くとは、一生の不覚。ものすごく恥ずかしい。
「サクとゼロは相思相愛だ。やったー。ばんざーい、ばんざーい」
うるさい、変人。
絶対にこの男ははじめからラブロマンスを期待していたに違いない。
なんか、悔しい。
すでに落ちつきを取り戻したのか、隣の兄貴がちらちらとこちらを見ている。
車の後部座席。まるでソファにかけているような心地。
だけど、心理的に快適なドライブとは言えない。
天使君にわたしのことをリセットしてほしくないのだ。
忘れてほしくない。
「兄ちゃん、ちょっと不思議に思ったことがあるんだけど、聞いてもいいか?」
黙っていると最悪のことばかり考えてしまう。今は兄貴の相手をするのも悪くない。
「なに?」
「おまえ、前にさ。自分の中にリセットボタンがあるって言っていたよな」
「――うん」
いまさら何だろう。天使君のリセットボタンとは次元が違う。
「だけど、ゼロに自分のことをリセットされるのは哀しいのか?」
「わたしと天使君のリセットボタンは違うでしょ」
変人は天才のくせにそんなこともわからないのか。
「そうかな、兄ちゃんは一緒だと思うけどなぁ」
「どこが?」
「だって、人間関係が蓄積されていかない。人を好きになるという気持ちがわからない。サクはそう言っていたぞ」
「それで?」
「人間にそんなことありえるのか? 兄ちゃんそれ聞いたとき、すごくショックだった。サクは昔、兄ちゃんの後をついて回って、素直で、メチャクチャ可愛かったんだぞ」
突然昔話とは。まったくもって脈絡が感じられない。
「それが、そんな拗ねたことを言うんだもんな」
拗ねていて悪かったな。どうせわたしはひねくれているよ。
「感情が化学反応だとかいう人に言われたくないけど」
「ううむ。――でも、よく考えたらサクがひねくれたのは兄ちゃんのせいかなと」
「は?」
「感情が単なる化学反応だということは、ずっと昔から思っていたな。ただ、それが過程(プロセス)を経て変化することは、ゼロの研究で考えはじめたんだ」
「それでわたしがひねくれたのは自分のせい? まったく意味がわかりません」
「うむ。ではわかるように話してやろう。要するに昔の兄ちゃんは、喜怒哀楽は一過性の化学反応だと思っていたんだ。だから、人に辛く当たっても、それはその時だけの反応だって考えていた。今となっては恐ろしいくらい幼稚な考えだ。だけど、そんな幼稚な考えで、兄ちゃんはサクを突きはなしたことがあった」
とくりと、深いところに紛れていた思い出が呼応する。予想外の展開に、思わず兄貴を見た。
「サクが中学くらいの頃かな。言い訳すると、兄ちゃんは周りが騒々しくなりはじめて、毎日苛々していたんだな。それでサクにやつあたりだ。ものすごく冷たい態度をとっていた時期があった。どうせサクが泣いても、一過性の反応だと思っていたし。最低なことにその時、兄ちゃんは心も痛まなかった。サクにも心当たりがあるだろ?」
「――うん、まぁ」
たしかに心当たりがある。
手を伸ばしても届かなくなった背中。いつのまにか兄貴の後姿を追いかけることを諦めた。
知らない誰かになっていくお兄ちゃん。置いていかれたような気持ち。
そう、ずっと当時の印象は暗い思い出の中にあった。
「だから、サクが自分の中にリセットボタンがあると言った時、サクの人を好きになるという化学反応を、兄ちゃんがあの時にとめてしまったのかもしれない。そう思ったんだな」
遠ざかっていた何かが、急に近づいてくるような錯覚がする。
兄貴は変人のくせに、心の深いところを見抜いていた。
「兄ちゃんは、変化はしても、人への思いがリセットされるなんていうことはないと思う。そういうの、すごくさびしいと思うし、サクがそうだったら哀しいなぁ。今ならサクもわかるんじゃないか?ゼロにリセットされることが、ものすごく哀しいんだろ?」
「――うん」
いまさら昔のことを掘り返すなんてずるいぞ、バカ兄貴。
ふたたび、じわりと視界がゆがむ。ぼたぼたと涙がこぼれた。
天使君。
かけがえのない存在。もうごまかしようもない。
わたしの中で止まっていた化学反応は、少しずつ反応をはじめていた。
天使君と出会って、少しずつ世界が動きはじめていたのだ。
ずっと心に痣があった。慕っていたお兄ちゃんに突き放された衝撃が残っている。とてつもなく哀しかったのだ。とつぜん変わってしまった世界。
それから、わたしは化学反応することをやめてしまった。
唐突に形の変わる気持ち、うつろう世界が恐かった。
頑なに心を閉ざしていた。自分が傷つかないように。
元カレにも友達にも。誰に対しても、どんな時も。
無彩色の世界。
この夏休み、天使君と過ごすようになるまで、ずっと閉ざされた世界をさまよっていた。
だけど、今ならわかる。
恐れていてはわからない。心を閉じていては。
化学反応しなければわからないのだ。開かれた世界が鮮やかなこと。
すべて天使君が教えてくれた。
自分の中にリセットボタンがあるなんて嘘だ。だって、わたしは天使君のことをリセットなんてできない。忘れられない。忘れてほしくない。
「それでさぁ、サク。質問なんだけど」
「なに?」
まだ何かあるのか。ずびっと鼻をすする。
「おまえ、ゼロのことを好きになっちゃったとか?」
「へ?」
変人の一番聞きたかったことはそれか。顔が思いきりラブロマンスを期待している。
「ゼロに恋が芽生えちゃったんじゃないのか?」
恋。天使君。
とつぜん、かぁっと全身がほてった。
「やっぱりか? やっぱりそうなのか?」
何も言い返せない。顔があつい。のぼせる。兄貴の笑い声が聞こえた。
「サクは鈍感だなぁ」
変人に言われて気付くとは、一生の不覚。ものすごく恥ずかしい。
「サクとゼロは相思相愛だ。やったー。ばんざーい、ばんざーい」
うるさい、変人。
絶対にこの男ははじめからラブロマンスを期待していたに違いない。
なんか、悔しい。