第5章 テロリズムとは何か

文字数 5,170文字

第5章 テロリズムとは何か
 アメリカの国務省は、二〇〇一年十月六日、二年ごとに変更される海外テロ指定組織のリストを発表している。その中には、もはや日本赤軍(JRA)や赤い旅団(BR)、バーダー=マインホフ・グループ(RAF)の名前はない。さらに、一九九六年にペルー日本大使館を占拠したトゥパク・アマル革命運動(MRTA)もリストから外されている。その代わりに、イスラム運動ウズベキスタン(IMUと真のIRA、極右のコロンビア自警軍連合(AUC)が新たに付け加えられ、アルカイダやセンデロ・ルミノソ(SL)、オウム真理教など二六団体が指定されている。指定の条件は三つある。「その組織は外国になければならない」。「その組織は、移民国際法第二一二条(a)(3)(B)に定義されているテロ活動に携わっていなければならない」。「その組織の活動は、合衆国国民の安全あるいは合衆国の国家機密(国防、国際関係、経済的利害関係)を脅かすものでなければならない」。指定の効果には法的とその他の二つが認められる。「FTO(海外テロ組織)指定組織に対して、合衆国民あるいは合衆国の管轄区域にいる人が資金その他の物質的支援をすることは違法となる」。「FTO指定組織の代表者と特定のメンバーは、外国人であれば、ビザ発給を拒否され、あるいは合衆国から追放されうる」。「合衆国金融機関は、FTO指定組織とその代理人の財源を停止し、合衆国財務省海外資産管理局にその妨害を報告しなければならない」。法的以外には、「寄付の阻止」と「テロ組織の認識と知識の増加」があげられる。

  コリン・パウエル国務長官(Secretary of State Colin L. Powell)は下院の外交委員会で、「ある者には『テロリスト』でも、別の者には『自由の戦士』に映るような領域がある。そこには判断が必要」であり、「白黒のつかないグレーゾーン」があると認めている。一般には、正規の戦争において敵を倒し、それによって誕生した英雄を賛美はしても、個人的暗殺は戦士の道徳に照らしていかがわしいものと見なされていたが、ツァーリズムを倒そうとした十九世紀末ロシアのテロリストや伊藤博文を暗殺して日本の朝鮮統治に抗議した安重根のように、後に民衆の英雄となった者もいる。パウエル国務長官はアルカイダやコロンビア革命軍(FARC)がテロ集団であることに議論の余地はないが、中東問題はテロの定義にあてはまるかどうか非常に難しいと言い、テロとは認められない条件として、先にあげた指定条件を強調しつつ、「政治的な不満の表現の道が攻撃以外に閉ざされているか」、「アメリカの価値に合う権利を求めているか」、「人権と民主化を尊重するか」などをあげている。カシミールやチェチェンなどに対しては、「イスラム過激派と結びついた勢力と政治活動家は別だ」と言っている。実際、テロリスト側だけでなく、各国の当局側も、今回のテロに他の問題──パレスチナ問題や移民問題、少数民族の独立問題、原油価格の下落に代表だれる経済問題──を絡めて、その抑圧を行う口実にしている。「どれほど原始的な社会であろうと、一つの社会をこのようなプログラムで解体するためには、そもそもの初めから、つまりこのプログラムが形成されたその瞬間から、前進途上で遭遇するいっさいの障碍を打破する決意が必要である。このプログラムを実現し、その推進者たらんとする決意する原住民は、常に暴力を覚悟している。禁止事項だらけの狭められたこの世界に否認し得るものが、絶対的暴力のみであることは、生まれ落ちたときから彼の目に明らかだ」(フランツ・ファノン『地に呪われたる者』)。

 テロリストが自由の問題に関わるのは必然的である。と言うのも、テロリズムはサディズムであり、サディズムはカント主義のアイロニーだからである。「定言的命令は、自由の理念が私を仮想的世界の成員にすることによって、可能なのである」(イマヌエル・カント『実践理性批判』)。対象に苦痛を与えることによって満足をえる性倒錯は、十九世紀後半の心理学者クラフト・エービングにより、マルキ・ド・サドの名にちなんで「サディズム」と命名されている。『悪徳の栄え』や『ジュスティーヌ』など一連の作品に登場する主人公は、愛する相手に残虐な行為を繰り返し、性的満足を得ている。サディズムは、狭義では、性的倒錯の一種である。対象に身体的、精神的な苦痛ないし屈辱や恥辱を与えて性的に満足したり、あるいはその加虐的行為によって性行為に至る興奮が異常に高められることを指す。ただ性的な快楽と直結しなくとも、他人に対して苦痛や恥辱を与える行為によって快楽や満足を覚える場合や他者への攻撃性一般をサディズムと呼ぶ場合もある。捕虜や囚人への拷問がその典型例であり、そこには品位を欠く残酷かつ攻撃的な行動が見られる。これらは地位や立場、役割の優劣の関係を背景にして、優位者が劣位者に及ぼす行為である。しかし、そのような対人関係を超えて、人格障害的に、個人が怒りや憎しみなど感情の高まりによって他人に対して加虐行為に至る場合もあり、それは犯罪につながる傾向が強い。

 また、精神分析学では、一般的なリビドー発達段階のある時期の特徴として理解されている。口唇期後期において、乳児が授乳の際、焦らされて母親の乳首を噛む時、これを乳児の怒りの表現として口愛サディズム、もしくは肛門期の幼児が親に強い反抗を示す際に、それを肛門サディズムと呼ぶ。テロリズムもこの分類に従い二つに分けられる。サーダート暗殺は前者に属し、ユナボマーは後者に分類できる。マルキ・ド・サドは人間の本性を徹底的に利己的と捉え、自然の原理を破壊と考え、一切の道徳を反自然として斥ける。悪徳が美徳を踏みにじり、あらゆる倒錯的性行為が展開されるサドの作品では、サドの哲学、すなわち神が存在しない世界における人間の自由の問題が道徳的な厳格さで追究されている。サドは反道徳を道徳的に求道し、道徳の持つ反道徳性を明らかにしているのであり、その姿勢において、道徳主義者である。マキシミリアン・マリー・イシドル・ド・ロベスピエールがカント主義の原理主義者であり、それに基づいて多くの人をギロチンに送ったが、彼自身もテロルの対象になっているように、テロリズムはアイロニーである。アイロニーであるため、テロリストの定義は受動的であり、時代的・社会的背景によって決まる。実際、サドも、旧体制下では放縦者、革命期には反革命者、帝政期においては狂人として、結局、生涯の三分の一以上、四十年近くを監禁されてすごしている。森毅は、『なぜ私は私なのか』において、「自由というのは、時代や社会と自分との間のずれ、そのすきまを生きる身のこなし」であって、「自己を確立して、時代や社会のなかに自己の地位を安定化させる」ことは「柔軟性がない」のであり、「自由を縛るのは、そうした自己」であると言っている。

 二〇〇一年、国連総会のテロ作業部会の包括的テロ防止条約案の審議では、テロ行為を「手段のいかんを問わず、身体に重大な危害、経済的に深刻な被害を引き起こす行為」を規定している。テロの実行犯だけでなく、共犯や政治犯、テロ集団の組織者、協力者にも拡大している。一般市民や政府を対象とした脅迫行為もテロに含まれる。イスラエル当局に拘束されているパレスチナの活動家は、「占領からの解放闘争の戦士として、組織の指示に従って、武装闘争に携わった。それもテロなのか」と問う。組織が「和平」を選んだり、「独立」によって政治的地位を固めることを選んだ場合、活動家の立場は揺れ動く。当局は「イスラエル人の血で手を汚した者」は釈放しない」という姿勢である。平和活動家のウリ・アブネリは「ユダヤ人の血だけが特別というわけではない」と言っている。「僕はモンゴル人として生まれたことは悪くないと思うが、しかし、過剰な誇りなどはまったく持っていない。そうする理由もないのだ。僕はいつも個人単位で生きている。(略)個人は世界の中では小さいが、個人の世界はそれほど小さくない」(宝音賀希格(ボヤンヒング)『わたしはモンゴル人』)。

 イスラエル軍の中核はハガナーやイルグンといったパレスチナのユダヤ人テロ組織である。ハガナーはキング・ダヴィデ・ホテルを爆破し、イギリスがパレスチナからの撤退に踏み切るきっかけとなっている。歴代のイスラエル政府首脳の中にはこうした組織の出身者が少なくない。メナヘム・ベギンとイツハク・シャミルはイルグン、モシュ・ダヤンやイツハク・ラビンはハガナーにそれぞれ所属している。ハマスの指導者の一人マフムード・アルザハルは「アメリカの同時多発テロとわれわれの殉教攻撃は一〇〇%違う。国民皆兵のイスラエルには、真の意味での民間人は存在しない。同時多発テロの犠牲になった罪のない民間人とパレスチナ人を殺戮する民間人とは別物だ。殉教攻撃を非難する前に、なぜイスラエルに『罪のないパレスチナ人を殺すな』と言わないのか」と強調している。

 ネルソン・マンデラ前南アフリカ共和国大統領やヤセル・アラファト暫定自治政府議長、シャナナ・グスマン初代東ティモール大統領もかつてテロリストと呼ばれている。また、シン・フェイン党の党首ジェリー・アダムスはイギリスの下院議員になっているし、低カーストの解放運動の活動家プーラン・デヴィ(Phoolan Devy)は、十一年獄中にあった後、インドの国会議員に選ばれている。彼女に至ってはテロリストどころか、「盗賊の女王」とまで呼ばれている。逆に、アウグスト・ピノチェト元チリ共和国大統領やポル・ポト元民主カンボジア首相、イディ・アミン元ウガンダ共和国大統領を国際社会は為政者として認知している。「虚構にさらされて自己が散乱することもない」よりも、森毅の『なぜ私は私なのか』によると、「現実の世界も虚構の世界も含めて、さまざまな光にさらされて、なんとなくゆらいでいるのがこの自分」であって、「確定した自己でもなく、時代や社会でもなく、そのずれのすきまを生きている。それが〈私〉という現象」である。

 こうした相対性を日本政府は無視している。オットー・フォン・ビスマルクによるエムス電報事件以来の謀略を柳井俊二駐米大使が行い、リチャード・アーミテ-ジ国務副長官(Deputy Secretary of State Richard L. Armitage) の”Show the flag”を「日の丸を見せろ」と訳し──近代の旗の意味は「フラッグ(flag)」と言うよりも、むしろ、「バナー(banner)」であろう──、それを受け、PKO協力法に基づいて、自衛隊はC-130輸送機六機で、隊員百四十人、テント三百五十張り、毛布二百枚、給水容器四百個、ビニールシート七十五枚、スリーピングマット二十枚を三泊四日かけてパキスタンに運んでいる。民間機なら、一揆だけですみ、十一時間で運べる。それに、このテントはパキスタン製である。テントは成田に保管されていたのを小牧まで運んでから、輸送している。中谷元防衛庁長官は、辻本清美衆議院議員の質問に対して、「自衛官は一生懸命運んでいるんです。能力的には至らないかもしれないが。食料投下も米国人の温かい思いやりからなんです。問題は何のためにやっているかという精神なのです」と答えている。これはテロリストと同じ主観主義にすぎない。テロに反対する国会でこういう答弁をする神経には疑問を抱かずにはいられない。「殺人のために努力するのだって、詐欺のために努力するのだって、精いっぱい尽くしたのは立派、極端に言えばそうなると思う。それほど極端でなくとも、戦争中の兵士として乱暴したのも、愛国少年として町の女性の髪を切ったのも、精いっぱいやったのだからということになってしまう」(森毅『努力なんて少しもえらくない』)。客観主義がなくなったとしても、主観主義が蔓延しているのは反動にすぎない。「ともかく、努力それ自体は、善でも悪でもないと、ぼくは考えている。人間それぞれに、自分の調子に合ったのがよい。そして、世の中カリカリしすぎているから、ぼくはぼくの調子で、ホドホドのすすめをして、バランスをとりたいと思っている」(同)。テロリズムは極端な主観主義であり、主観の持つ排他性が顕著である。カルトがテロルに走る傾向にあるのは、内面と外面の分裂を認めず、内面を優先させるからである。カルトは信仰と行動のバランスを欠いている。日本政府の国際貢献は、カルト同様、主観的な思い込みの押し売りにすぎない。
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