第1章 出発点

文字数 5,557文字

WANTED: DEAD OR ALIVE
─テロリズム
Saven Satow
Jul. 01, 2003

「正しいかどうかよりは、それがしっくりするかどうかの方が大事や思うんですよ。相手をきっちりするというのは、これで文句あるかという説得でしょ。しっくりしたなってのは納得でしょ。納得と説得に差があると腹立つやないすか。納得してないのに、説得されていくって。だから、他人を納得なしに説得してはいけない。納得の方が高級なんですよ。全体の感じをつかむから。正しさってなかなか人に伝わらんもんなんですよね。楽しさの方はわりに伝わるんです。正しさなんてものは、ぼくは、どうでもいいんです。正しさはなかなか伝染せんけど、楽しさは伝染しやすいという。一番問題なのは、新しいものを楽しんだり、変なことを珍しがったりするっていうのが、落ちてますね、今、それですね」。
森毅
「最もよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』

第1章 出発点
 二〇〇一年九月十一日、ナイフを手にした男たちにハイジャックされた三機のボーイング旅客機がニューヨークのツイン・タワーとワシントンのペンタゴンに突っ込んだ時、そこに二十世紀というものがあぶり出されている。

 見よ、今日も、かの青空に
飛行機の高く飛べるを。

 給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人で家にゐて
ひとりせっせとリイダアの独学する眼の疲れ……

 見よ、今日も、かの青空に
飛行機の高く飛べるを。
(石川啄木『飛行機』)

 合衆国政府は、ただちに、この痛ましい多数の犠牲者を出した同時多発テロをオサマ・ビン・ラディンをリーダーとするアルカイダによる犯行と断定し、諸々の経緯の後、十月八日、彼らを匿い、軍事訓練を見逃しているアフガニスタンを実効支配するタリバン政権に対して空爆を開始する。

 しかし、今回の同時多発テロの出発点は一九七九年に起きた三つの出来事にある。第一に、二月にイランで起きたアヤトラ・ルッホラ・ホメイニーに率いられたイスラム革命、第二に、三月のエジプト大統領ムハンマド・アンワル・アッサーダートとイスラエル首相メナヘム・ベギンの間で交わされたキャンプ・デーヴィッド合意であり、そして最後に、十二月のソ連軍のアフガニスタン侵攻である。

 これらの出来事は、「イスラム主義」によって、つながっている。サーダートの決断は、中東和平を前進させたものの、先鋭的なグループがアラブ民族主義の結束からイスラム主義による連帯へと傾倒していくことを結果として促す。それはイランのイスラム革命に影響されている。十一月には、イランの若者たちがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、大国アメリカを脅かしている。大使館員の救出作戦を失敗したジミ-・カーターは、次の大統領選挙で、ソ連を「悪の帝国」と呼ぶロナルド・レーガンに敗れる。アラブの先鋭的なグループの眼にはイスラム主義がアラブ民族主義より強力に映っている。イスラム主義者は「ジハード」を唱えるようになり、ヒロイズムに耽溺する彼らにとって、イスラム教徒が攻撃されているアフガンは格好の場所である。当時、ソ連の軍部はアフガンに兵を進めることに反対していたが、中央アジアにおけるアメリカの発言力が強まるのを恐れて、指導部が強行に決定している。アメリカの方も、親米だったパーレヴィ-朝のイランを失い、ソ連の中央アジアへの覇権を危惧し、アフガンのゲリラを支援している。ロナルド・レーガン合衆国大統領はアフガン・ゲリラをアメリカに招く。アフガンにやってきたイスラム義勇軍はソ連軍が憎かったわけではなく、ジハードに参加できることを求めている。そのため、ソ連軍がアフガンから撤退した後、さらなるジハードを探すようになっている。「みんな、物事に原因、結果の理屈を求めて納得したがっている。宗教に求めているのも、世の中がすぱっと割り切れる世界観とぼくは踏んでいる」(森毅『そこはかとない不安をついた新興宗教ブーム』)。イスラム主義を含めて、後に言及する通り、原理主義運動は道徳による割り切りであり、イスラム復興は極めて近代的である。彼らは近代の原因=結果の図式に基づいて、世界の中にある不可解さを納得するために、しばしばテロリズムを用いている。彼らには、ジョン・キーツが一八一八年の弟ジョージおよびトーマス・キーツ宛ての書簡で記している「ネガティヴな能力(Negative Capability )」、すなわち「事実や理由を手にしようと努力することにいらだつことなく、不確実、神秘、懐疑の状態でいることが可能」な「生半可の知識(half-knowledge)」に満足できない。これは現代の心理学で「曖昧耐性(Ambiguity Tolerance )」と呼ばれるものだ。「ぼく自身は、霊とか占いとか、よくわからんことのある世界が好きなほうだ。ただし、それは説明できないからおもしろいので、宗教で説明されてしまうのは気にくわない。どっちみち世界のなかはわからんことだらけなのだから、せめて宗教では、わからんでも安心できるようにしてほしい」(森毅『合理性を求める宗教?』)。

 森毅は、『そこはかとない不安をついた新興宗教ブーム』において、高学歴なものほど極端な運動に走る傾向について、次のように分析している。

ブランド大学を卒業して、ブランド企業に就職して、一見安定した順調な生活を送っているように見える人には、かえってそこはかとない不安が生まれているとぼくは観察している。社会はますます流動的になっている。不確定要素がいや増し、近い将来、自分の環境がどう変わるのか予測がつかない。インテリはいち早く、この時代状況を察知する。しかも、順調に人生を進んでいるゆえに不確実性に対する不安感が強い。
ところが、その不安をそのままにはしておけない。前にも触れた、わからないことへの耐性の不足だ。

 歴史的に、テロリズムを主流な活動とした反体制運動としてナロードニキがあげられるが、テロリズムの思想はナロードニキからあまり変わっていない。イスラム主義者の発言は六〇年代の新左翼の主張に似ているけれども、それはナロードニキの言説に由来する。ナロードニキがそうだったように、テロリズムは近代化の矛盾によって生まれる。

 「ナロードニキ(Народники)」は帝政ロシア末期に生まれた革命的人民主義者の集団であり、一八七三年から二年間ほど起きた知識人、学生を中心とするナロードニキは「В Народ(人民の中へ)」を唱える。彼らは西欧的資本主義の発展段階を経験せずに、ミールを土台にして社会主義的段階に移行できると考える。後進国ロシアにおける革命運動の遅れを一挙に解消するために、先進西欧諸国が生み出した社会主義思想とロシアにおける共同体的な伝統を結び付けようとする意図がある。彼らが資本主義的発展の必然性を説くロシアのマルクス主義者たちと対立するのは当然であろう。ナロードニキ運動はラブロフ派とバクーニン派の二派に分類できる。ラブロフ派は都市労働者に向けて革命の宣伝と準備を行い、他方、バクーニン派は農村に入り、農民に対して革命運動に立ち上がることを訴えるが、農民が人口の大部分を占めるロシアでは、バクーニン派に多くのナロードニキが加わっている。バクーニン派によれば、社会主義的な習慣をすでに身につけている農民が革命の中心的勢力であるから、資本主義的な発展段階をスキップして、社会主義的な発展段階に移行することができる。革命を迅速に実現するために、体制の中で特権的な地位を占めている知識人はそれを捨て、抑圧されている農民の中へ入り、革命の意義を説かなければならない。運動が最盛期を迎えた一八七四年、こうした思想の影響を受けた青年・学生たちが農民や職人に姿を変えて、大挙して農村に入り、農民を反政府運動や革命運動に立ち上がらせようとしている。しかし、農民たちは彼らの情熱にもかかわらず、呼びかけに応じるどころか、逆に、警察に密告したため、運動は挫折してしまう。この結果、農民への宣伝ではなく、テロリズムによる体制の転覆を目指すナロードニキの秘密結社──「人民の意志」派──が登場するようになる。「されど、なお、誰一人握りしめたる拳に卓をたたきて、’V NAROD!’と叫び出づるものなし」(石川啄木『はてしなき議論の後』)。

 このナロードニキ主義の始祖としては、アレクサンドル・ゲルツェンやニコライ・チェルヌイシェフスキーがあげられるが、むしろ、彼らの活動はブ・ナロード運動の挫折以降に活発化する。一八七六年に、社会主義の理論を棚上げし、すでに人民が自覚している要求を名前にした秘密結社「土地と自由」が誕生する。この結社は、農村に定住して宣伝を始め、ブ・ナロード運動が盛り上がった数年前と違い、今度は農民に受容される。しかし、当局の弾圧が厳しくなり、権力との直接闘争へと方針を転換すべきだと内部から異議が申し立てられる。一八七九年、農村における宣伝活動に重点を置く「土地総割替」派とテロル戦術による急進的な革命をめざす「人民の意志」派に分裂し、後者は一八八一年に皇帝アレクサンドル二世の暗殺に成功する。だが、こうした闘争には、政治的見通しが乏しく、また当局による厳しい弾圧によって、紆余曲折を経たナロードニキの組織活動も壊滅に追いこまれていく。ただ、彼らの思想は消えることなく、エス・エル党に継承される。このような社会的・時代的背景の下、一九一七年、ロシア革命が起こり、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、偉大なる同志の死後、スターリニズムという原理主義が始まり、「人民の敵」を粛清していく。

 そのソ連も、一九九一年、崩壊する。ミハエル・ゴルバチョフは、しばしば、アフガン戦争を「ソ連にとってのベトナム戦争」と評している。ソ連には、アフガニスタン侵攻の代償はあまりに大きい。ソ連軍撤退後、アメリカはアフガンから手を引く。東西冷戦構造が解体した後、アメリカの関心は、むしろ、中東やバルカン半島へ向かい始める。世界は一九三九年以前の秩序へと舞い戻る。

 ところが、せっかくナジブラ政権を倒してカブールに入ったものの、アフガニスタンに発足したムジャヒディン政権は仲間割れを始めてしまう。タジク人のイスラム協会のブルハヌディン・ラバニとアハマド・シャー・マス-ドはそれぞれ大統領と国防大臣、パシュトゥン人のイスラム党のグルブディン・ヘクマティアルは首相に就任したが、この二つの勢力は相性が悪く、また、ウズベク人のアブドゥル・ラジム・ドスタム将軍率いるイスラム国民運動とシーア派ハザラ人のイスラム統一党は新政権から軽視されたため、不満を高まらせていく。こうした民族の分類は、ドスタムがキプチャク人であるという説もある通り、実際には、曖昧であり、便宜的でしかない。

 そのうちに、内戦が勃発し、パキスタン・インド・タジキスタン・ウズベキスタン・イラン・サウジアラビアなど周辺国が思惑から各勢力に干渉し、アフガン国内は無法状態に陥り、三十年戦争のドイツと化している。各勢力とも非常に細かく分かれているため、決定力を欠いている。

 一九九四年、そこにカンダハルからタリバンが表われる。ムラ-・ムハンマド・オマルを最高指導者とするタリバンはパキスタンのイスラム神学校であるマドラサで学んだ学生であり、相対的に、禁欲的な人物が多い。パシュトゥン系のタリバンはさしたる兵器も持たないまま、たちまちアフガンの大部分を支配地域に治める。アフガンの人々はアフガンの秩序を回復した学生運動のタリバンを歓迎する。

 しかし、二〇〇一年十一月、タリバン自身も数日間で北部同盟軍によってほとんどの支配地域から掃討される。内戦は小さな戦いであるため、均衡状態がわずかに崩れただけで、なだれ現象が起きる。タリバンの勢いに脅威を覚えた各ムジャヒディンは停戦合意を結び、結束し、マス-ドが指導するアフガニスタン救国イスラム統一戦線、通称北部同盟を結成する。へクマティアルを支援してきたパキスタンとサウジアラビアは彼を見限り、タリバンを承認し、へクマティアルはイランに亡命する。

 サミュエル・ハンチントンは、『文明の衝突』において、ソ連軍侵攻以降のアフガンの状況を次のように述べている。

 この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、全ての非イスラム教徒軍に対してイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術を持つ経験に富んだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念に作られた個人と組織のネットワークも残された。また大量 の兵器が残され、三百基から五百基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして特に重要なのは、自分たちが成し遂げたことから生まれる力と自信に満ちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。

 これは政治的に無責任極まりない発言であると糾弾せざるをえない。「文明の衝突」はアメリカの御都合主義的な外交を隠蔽するイデオロギーであり、極めて有害な視点である。ディエゴ・マラドーナは、「ビン・ラディン氏は、過去にCIAの支援を受け、旧ソ連のアフガン侵攻と戦った。フランケンシュタインを生み出した合衆国政府には嘆く資格はない」と言っているが、このほうがはるかに見識的な意見である。「アメリカ人は勝利にかけてはエキスパートであるが、敗北にかけてはまだアマチュアである」(E・ウォルシュ)。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み