第12章 映像メディアと9・11

文字数 3,722文字

第12章 映像メディアと9・11
 同時多発テロは非常に映像が意識され、それはハリウッド・リアリズムを帯びている。テロリストのシナリオと演出はハリウッド的である。『ダイ・ハード』三部作には、ハイジャック、テロリスト、ビルの崩壊が描かれていることを思い起こせば、九月十一日のテロを「ダイ・ハード・テロ」と呼ぶことができる。トム・クランシーは、『合衆国崩壊(Executive Orders)』において、テロリストによってハイジャックされた旅客機がビルに突っ込む描写を描いているが、むしろ、トム・クランシーのような想像力がテロリストに方法を提供している。パレスチナ・ゲリラは007シリーズのビデオを手に入れ、それを参考にしている。テロリストならこういう残虐なことをするだろうという差別的な想像力が、逆に、彼らを刺激する。ハリウッドは『インディペンデンス・デイ』や『アルマゲドン』など時代錯誤的なナショナリズムの高揚映画を平気で発表している。テロリストはそんなハリウッドが描き続けた勧善懲悪の世界を実行に移す。ヒーローの活躍を際立たせるためには、惨劇が必要である。悪が大きければ大きいほど、善は輝く。大きな善と悪の対決の下、小さな被害者の人生に対する想像力がそこにはまったくない。一九八八年、『ランボー3 怒りのアフガン』において、ランボーはアフガン・ゲリラと共闘している。彼と共に戦ったアフガン・ゲリラの中にはオサマ・ビン・ラディンもいたことだろう。ジョージ・W・ブッシュ大統領が「正義(justice)」を口にするとき、それはハリウッド・ヒロイズムに彩られたハリウッド・ジャスティスである。

 同時多発テロの結果、そうしたリアリズムに則してきたハリウッドは、アイロニカルに、方向転換を迫られている。ビルを爆破したり、爆破を計画するテロリストが登場するために、アーノルド・シュワルツネッがー主演の『コラテラル・ダメージ』やジャッキー・チェン主演の『ノーズ・ブリード』の公開が延期されている。

 今度のテロは映像メディアの限界も露呈している。テロリストはinvisibleな存在であり、テロリズムとの戦いはinvisible、すなわち認識的なわかりにくさとの戦いである。映像メディアの安易なvisibleさから決別しなければならない。映像メディアは二十世紀において最も中心的なメディアであるが、一九八〇年代に入り、大きく変化しているものの、映像メディアは多様な価値観では機能できない。素朴かつ短絡的な二項対立の図式によって、複雑さを回収する。スポーツが映像メディアとともに発展してきたのもそのためである。ジャーナリズムは、スポーツ中継のように、今回も戦争行為の先を予測している。しかも、人々は、意識しないうちに、映像メディアに毒されている。「映画のようだ」と感じた時、その複雑な背景を持った事件が映像メディアの図式へと回収されていることを告げている。この瞬間にテロリズムが再生産されているのだ。九月十一日以降、映像メディアの文法と修辞法の再検討が促されている。

 マーシャル・マクルーハンは、『メディア論 人間拡張の諸相』において、メディアについて次のように述べている。
 
われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し区分することに長らく慣らされている。だから、操作上及び実用上の事実として「メディアはメッセージである」などといわれるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身を延長したもののこと)の場合でも、それが個人及び社会に及ぼす影響というのは、われわれ自身の個々の延長(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する、ということだ。だから、例えばオートメーションの場合なら、なるほど、人間の結びつきに新しいパターンが出来て、固定した職務を駆逐する傾向がある。それは否定的な結果だ。しかし、肯定的には、オートメーションは人びとのために流動する役割を生み出す。(略)多くの人は機械でなくて、人が機械を使ってなすことが、その意味あるいはメッセージだったのだ、と言いたいであろう。しかし、機械がわれわれ相互の、あるいは自身に対する関係を変えた、その仕方を考えてみれば、機械がコーンフレークを生産しようがキャデラックを生産しようが、そんなことはまったく問題ではなかった。人間の労働と人間の結合の再構造化が細分化の技術によって形づけられたのであり、それが機械技術の本質というものだ。

 マクルーハンは「メディアはメッセージである」、すなわち伝達されるコンテンツ以上に、その存在が社会を規定すると主張する一方で、「メディアはマッサージである」、すなわちメディアには日々の生活で硬直した精神を慰撫する効能、緊張の緩和を促す効能があるとも言っている。従来のメディア論では、前者の「メッセージ性」が語られても、後者の「マッサージ性」が考慮されることは少なかったが、日常生活において、メディア産業はレジャー産業であり、むしろ、緊張の緩和に用いられている。メディアのマッサージ性によって、戦争も、テロもレジャーになるというわけだ。

 メッセージの前には必ずシグナルがある。それが意識的な場合もあれば、無意識的な場合もあり、自明的認識に対する抵抗を含んでいる。このシグナルを見落とすと、マッサージはサディスティックになる。一九七〇年九月十二日、PFLPが、ヨルダン北部の彼らが革命空港と呼ぶドーソン空港で、ハイジャックした三機の旅客機を爆破したのは、世界が自分たち、すなわちパレスチナ人のことを忘れているのではないかと恐れたからである。多くの場合、大掛かりなテロは規模の小さな組織が存在感をアピールするために行われるのだが、これはその典型である。同時多発テロもこの「黒い九月(Black September)」と同じ九月に起きている。両者ともリラクゼーションとしてのマッサージではない。メディアが取り扱わなければ、問題はinvisibleであり、そうした不作為は悪しき作為と同じ意味を持つ。マッサージも、ひどい不摂生によって硬直しすぎた身体には、痛みと感じられてしまう。それどころか、荒療治をしなければ、健康を回復できないことさえある。日常的な身体・精神への目配りこそがマッサージを有効に機能させるのであり、メディアは日頃から健康に気をつけなければならない。

 しなやかさを失ったメディアはいがみ合いを助長する。不寛容さは流動性の忌避を持っており、差異と同一が問題なのではなく、その流動性こそが重要であって、多くの場合、差異がメディアを通じて形成されたイメージに基づいている。アメリカではターバンを巻いたシーク教徒が射殺され、サウジアラビアではドイツ人夫妻に火炎瓶が投げつけられている。いずれも誤解と見られている。アメリカ国務省は、旅先でアメリカ人と悟られないように、注意をして欲しいと促し、それを受けて、TVは「一目でアメリカ人とばれる服装」という特集を組んでいる。つばを丸めたベースボール・キャップ、大学もしくは都市の名前の大きなロゴ入りのTシャツ、腰にはウエストポーチ、白い靴下にナイキかリーボックのスニーカー、手にはペットボトルとVTR、仲間内のジョークに大笑いしながら、観光名所を大勢でそぞろ歩き、空港や駅で待ち時間が長いと、寝転び、車座になってポーカーを始める。

 ただし、イメージの問題点の解決の方策として視覚的メディアの否定を導き出すのは早計である。タリバンが一切の画像・映像メディアを禁止したように、それは反動でしかない。イメージにおける真偽の混在を楽しむ必要である。「ぼくは、人間が未来を予測できるのは、十年程度だと思う。それから先へは、イメージが及ばない。ぼく自身の経験からしても、あの戦争中の少年だったころには、平和のイメージが持てなかった。そんなに愛国少年でなかったので、ぼつぼつ戦争も負けそうだと考えていたのだが、さて戦争の終わった時代というと、想像できなかった。そして、平和になった戦後は、ひどく貧しかった。アメリカ映画で見る生活は、ありえないものに思えた。豊かな社会を想像することはできず、焼跡の闇市をうろついていた。高度成長の時代には、繁栄の抑止といったことに頭がまわらなかった。こんなに、どんどん道ができ町ができてよいのかと、漠然とした不安はあっても、低成長は現実の発想になかった。少なくともぼくの場合、十年先のイメージがなかった。どちらかといえば現在に対して醒めているほうなのだが、頭の理屈で考えても生活のイメージがついていかなかった。社会が変わるにつれて、自分も変わってきているのだろう。それで、自分を乗せた社会という列車のなかで、いちおうは安定して暮らせる。でも、社会が十年も二十年もこのままのように考えて、そこでの自分の位置まで計画してしまうのも、つまらないと思う」(森毅『「将来の安定」なんて十年先までが限界だ』)。
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