第13章 風格を求めて

文字数 7,627文字

第13章 風格を求めて
 テロリズムは時代と共に変化する。そのため、ある時代に優秀なテロリストだったとしても、次の時代には使い物にならなくなることは少なくない。テロリストはつねに世代交代を必要とする。テロリストとしての寿命は決して長くない。優れたテロリストは当局や特殊機関が必死になってその行方を追いかけ、その結果、殺害されたり、逮捕されたりしてしまう。逆に、たいした実力も備えていないくせに、カルロス・ザ・ジャッカルのように、メディアによって拡大しされることもある。テロリズムを成功するには、明確な目的と綿密な計画以上に、気まぐれな偶然であることも実際に多い。そうした手合いは、当局がそのリスクと費用を考慮し、無理に、捕まえることはしない。また、彼らをかくまう国家も彼らの能力を熟知し、政治的な取引の条件として利用するだけだ。テロリストは政治を翻弄し、政治はテロリストを使い捨てる。一般の民衆がその矛盾の代償を最も被ることになる、

In the year 2525, if man is still alive,
If woman can survive, they may find-

In the year 3535
Ain't gonna need to tell the truth, tell no lies.
Everything you think, do, and say
Is in the pill you took today.

In the year 4545
Ain't gonna need your teeth, won't need your eyes.
You won't find a thing to chew,
Nobody's gonna look at you.

In the year 5555
Your arms are hanging limp at your side,
You legs got nothing to do,
Some machine's doing that for you.

In the year 6565
Ain't gonna need no husband, won't need no wife.
You'll pick your sons, pick your daughters too
From the bottom of a long glass tube.
Whoa-oh-oh.

In the year 7510
If God's a-coming He ought to make it by then.
Maybe he'll look around himself and say,
"Guess it's time for the Judgement Day."

In the year 8510
God is gonna shake his mighty head.
He'll either say, "I'm pleased where man has been"
Or tear it down and start again. - Whoa-oh-oh

In the year 9595
I'm kinda wondering if man is gonna be alive;
He's taken everything this old Earth can give
And he ain't put back nothing.

Now it's been ten thousand years,
Man has cried a billion tears
For what he never knew.
Now man's reign is through.
But throught eternal night,
The twinkling of starlight,
So very far away,
Maybe it's only yesterday...

In the year 2525, if man is still alive,
If woman can survive, they may find-
(Zager And Evans “In The Year 2525 (Exordium And Terminus)” )

 テロリズムが極端な主観主義=道徳主義であって、道徳によって政治・経済の克服を試みているがゆえに、二十世紀に対して大きな問題提起をしているのも事実である。ジョージ・W・ブッシュ大統領は「これは善と悪との戦いになる。そして善が勝つ」と演説しているが、テロリスト側のコメントとまったく同じである。同時多発テロから一年後には、実際、ブッシュ政権はアルカイダのことなど忘れたように、サダム・フセイン体制のイラクの危険性ばかりを訴えている。イラクはアルカイダを支援しており、なおかつ大量破壊兵器を開発して、国際社会の安全を脅かしているから、アメリカは正義のために、イラクと対決しなければならないというわけだ。二〇〇二年十月十二日の深夜、インドネシアのバリ島で、外国人観光客を狙ったと見られる爆弾テロが起きている。この事件の死者は一八〇人を超える。同時多発テロ以来、アルカイダと関係があるとされる先鋭的なグループによるテロルは中東よりも、むしろ、東南アジアで頻発している。こうした状況からも、ジョージ・W・ブッシュ政権の主張するイラクとアルカイダとの「不適切な関係(Inappropriate Relation)」が主観的な思い込みと判断せざるを得ない。二〇〇二年十月十七日、北朝鮮が米朝合意の枠組みを無視して核開発を続けていることを認めたと報道され、その北朝鮮には外交努力を続けるのに対し、核開発が疑惑の段階であるにもかかわらず、なぜイラクを武力攻撃しなければならないのかとCNNの番組で尋ねられて、ライス大統領補佐官は「イラクが北朝鮮のようにならないため」と説明している。

 客観主義が幻影であったとしても、言うまでもなく、主観主義にとどまることは許されない。共コミュニケーションを通じた同主観主義を目指す必要がある。主観主義的な道徳主義である原理主義者が政権をとっても、経済政策に関しては無策と言ってよく、経済破綻を招くことは少なくない。原理主義者の経済政策は勤勉に働き、質素な生活を心がけようというスローガンを訴える程度である。ところが、経済は「欲望」に基づいている。テロリズムの温床となりかねない原理主義運動を抑えるには、今のところ、有効な経済政策を打ち出すしかないと考えられている。テロリズムは経済的不平等を解消するために行われるが、実際には、さらなる経済的貧困さを招く。大量生産=大量消費の時代においては、戦争は経済活動を活発化させるけれども、テロは、大量生産=大量消費に抗うものであるため、経済を収縮させる。テロリズムは自らの目的に対してもアイロニカルに働く。共同主観に基づいた新たな倫理を創発することが目標である。十九世紀、国民国家が登場し、政治によって経済問題を解決して、政治の統率力、超自我が経済のアナ-キーさを制御するはずだったが、二十世紀に明らかになったのは政治ではどうにもならない経済のイド性である。経済は、アメリカの世紀において、政治を凌駕している。サディズムであるテロリズムは超自我=自我=イドのある種の再検討を現代社会に促している。十九世紀が政治の世紀であり、二十世紀が経済の世紀だったとすれば、次の世紀は倫理の世紀になるだろう。「心の交感の貧困にいらだつとき、ひとはしばしば倫理主義になる。いわば、心の交感のモラルの欠如が倫理主義をもたらすのだ」(森毅『学校とテスト』)。

You turned me on
so bad that there was only one thing on my mind
An over night affair was needed at the time
Hello goodbye
no searching questions that was clearly understood
But how was I to know that you would be so good

For the peace for the peace
for the peace of al mankind will you go away

Will you go away will you vanish from my mind
Will you go away and close the bedroom door
And let everything be as it was before

Too much to soon
too bad it didn't hit me till a week had passed
I might've saved the day if 'd acted first
I looked around
in case you'd scribbled down your number secretly
But all you left were fingerprints and memories

For the peace for the peace
for the peace of al mankind will you go away

Will you go away will you vanish from my mind
Will you go away and close the bedroom door
And let everything be as it was before

For the peace for the peace
for the peace of al mankind will you go away

Will you go away will you vanish from my mind
Will you go away and close the bedroom door
And let everything be as it was before
(Albert Hammond “For The Peace Of All Mankind”)

 小泉純一郎首相は、テロ対策特別措置法案をめぐって、衆議院の外交防衛委員会で、「法的な定義は専門家に任せる。政治家の知恵として常識的に議論したほうがいい」、あるいは「憲法そのものも国際常識と合わないところがある」と答弁している。テロ対策特別措置法の正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」であり、寿限無法とも呼ばれている。

 非ユークリッド幾何学が発見されたのは、ユークリッド幾何学の第五公準だけが長かったからである。それは「二つの直線が、他の直線と交わってできる二つの交角の和が二直角未満であるならば、二つの直線は交角のある側に延長すると必ず交わる」という趣旨であり、第一公準の「二つの点を線分で結ぶことができる」と比べて、確かに長く、入り組んでいる。非ユークリッド幾何学が認められ始めた一八六〇年代から、公理の考え方が変化している。従来、公理は自明であって、万人が認めるものであり、常識的事項だったが、新しく公理は常識的でなくとも、論理的に正しければよいと変容する。公理は独立していて、無矛盾であり、完全であることが求められるようになる。

 文化相対主義が中心となっている現代、テロ対策の法案には「常識」ではなく、むしろ、論理的な正しさが必要である。「常識」を志向する日本の外交政策は、結局、名誉白人の称号の獲得を目的としているにすぎない。「風格」のない外交姿勢では、何をやっても、まったく感謝されない。「人を出すにしろ出さぬにしろ、金を出すにしろ出さぬにしろ、その身のこなしには風格というものがある。逆に、風格がなければ、どうしたってみっともない。日本が一番だめなのは、横並びの思想にとらわれていることだろう。よその国もやっているのだから日本もやらねばならぬとか、よその国が撤退してくれば日本もできるのだがとか、そんな言葉を政治家に言ってもらいたくない」(森毅『政治の絵柄』)。

新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はないけれど──
(石川啄木『悲しき玩具』)

 オサマ・ビン・ラディンの弟やいとこを含む在米の親族二十四人が、テロ三日後に、チャーター機でサウジアラビアへ帰国している。大学留学中の一人は「第二次大戦中に罪もないのに強制収容された日系人の気持ちが初めてわかった。怒りの爆発の前では、無実かどうかは関係なくなってしまう」と語っている。国民国家やコモンウェルスは「怒り」によって維持されているし、テロリズムも「怒り」に基づいて実行されている。従って、国民国家やコモンウェルスを超え、テロリズムを克服するのは、「怒り」の道徳ではなく、おそらく、次のような「風格」を持った道徳になるに違いない。

 収容所生活の最後の頃の極度の心理的緊張、このいわば神経戦から心の平和へと戻る道は決して障害のない道ではなかった。そしてもし人が収容所から解放された囚人は何らの心理的保護を必要としないと考えたらそれは誤りである。むしろまず第一に次のことを考えねばならないのである。すなわち収容所におけるような極度の心理的圧迫の下にいた人間は解放の後に、しかも突然の圧迫除去の故に、ある心理的な危険に脅かされているのである。この危険(精神衛生の意味における)はいわば心理的なケーソン病(潜函病)にあたるものなのである。ケーソン労働者が(異常に高い気圧の下にある)潜函を急に出るならば健康を脅かされるように、心理的な圧迫を急に除かれた人間もある場合には彼の心理的道徳的健康を損なわれることもあり得るのである。
 特にいくらか原始的な性質の人間においてはこの解放後の時期に、彼等が依然としてその倫理的態度において権力と暴力とのカテゴリーに固執しているのが認められることがあった。そして彼等は解放された者として、今度は自分がその力と自由を恣意的に抑制なく利用できる人間だと思いこむことがあった。彼等は権力や暴力、恣意、不正の客体からその主体になったのである。さらに彼等はまた彼等が経験したことになお固執しているのである。このことはしばしばとるにたらない些細なことの中に現れるのであった。たとえば、一人の仲間と私とは、われわれが少し前に解放された収容所に向って、野原を横切って行った。すると突然われわれの前に麦の芽の出たばかりの畑があった。無意識的に私はそれを避けた。しかし彼は私の腕を捉え、自分と一緒にその真中を突切った。私は口ごもりながら若い芽を踏みにじるべきではないと彼に言った。すると彼は気を悪くした。彼の眼からは怒りのまなざしが燃え上った。そして私にどなりつけた。「何を言うのだ! われわれの奪われたものは僅かなものだったのか? 他人はともかく……俺の妻も子供もガスで殺されたのだ! それなのにお前は俺がほんの少し麦藁を踏みつけるのを禁ずるのか!……」何人も不正をする権利はないということ、たとえ不正に苦しんだ者でも不正をする権利はないということ、かかる平凡な真理をこういう人間に再発見させるには長い時間がかかったのである。そしてまたわれわれはこの人間をこの真理へ立ち帰らせるよう努めねばならないのである。なぜならばこの真理の取り違えは、ある未知の百姓が幾粒かの穀物を失うのよりは遥かに悪い結果になりかねないからである。なぜならば私はシャツの袖をまくり上げ、私の鼻先にむきだしの右手をつき出して「もし俺が家に帰ったその日に、この手が血で染まらないならば俺の手を切り落としてもいいぞ。」と叫んだ収容所の一人の囚人を思い出すのである。そして私はこう言った男は元来少しも悪い男ではなくて、収容所でもその後においても常に最もよい仲間であったことを強調したいと思う。
(ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧』)

“If you insist. Believe me, I love you for who you are, though...”
〈了〉
参照文献
逢沢明、『ゲーム理論トレーニング』、かんき出版、2003年
会原一幸、『カオス学入門』、放送大学教育振興会、1997年
今村仁司編、『現代思想を読む事典』。講談社現代新書、1988年
巌佐庸。『数理生物学入門―生物社会のダイナミックスを探る』、共立出版、1998年
粕谷英一、『行動生態学入門』、東海大学出版会、1990年
柄谷光人、『マルクスその可能性の中心』、講談社学術文庫、1990年
W・テレン・ス ゴード、『マクルーハン』、宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫、2001年
チャールズ・タウンゼンド、『テロリズム』、宮坂直史訳、岩波書店、2003年
田中宇、『タリバン』、光文社新書、2001年
V・E・フランクル、『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』、霜山徳爾訳、みすず書房、 1985年
村上春樹、『アンダーグラウンド』、講談社文庫、1999年
森毅、『学校とテスト』、朝日選書、1977年
同、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
同、『数学的思考』、講談社学術文庫)、1991年
同、『生きていくのはアンタ自身よ―佐保利流「人生」と「勉強」トラの巻』、(PHP文庫、1992年
同、『数学と人間の風景』、NHKライブラリー、1995年
同、『ボクの京大物語』、福武文庫)、1995年
同、『人は一生に四回生まれ変わる』、知的生きかた文庫、1996年
同、『自分は自分「頭ひとつ」でうまくいく―森流“ものぐさ発想・はみ出し思考”』、(知的生きかた文庫、1998年
同、『考えすぎないほうがうまくいく―“やわらか発想・寄り道思考”のススメ』、知的生きかた文庫、1998年
同、『ぼちぼちいこか』、実業之日本社 1998年
同、『二番が一番』、小学館文庫、1999年
『年をとるのが愉しくなる本 』、ベスト新書、2004年
渡辺光一、『アフガニスタン―戦乱の現代史』、岩波新書、2003年

DVD『ENCARTA総合大百科2004』、マイクロソフト社、2004年

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